穂積陳重
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13歳で婿養子として入江家と養子縁組(婚約)をし、宇和島藩の貢進生として大学南校入学時は入江邑次郎、開成学校では入江陳重と名乗っている[8]。入江家の援助により1876年から英独に留学。

1881年(明治14年)、英独留学から帰国し東大法学部講師就任。この時点ではボアソナードや仏法学にも好意的だったが、翌年から仏文の財産法草案(プロジェ)を検討するにつれ批判的になる。この時の学生だった江木衷や奥田義人らが穏健派の陳重を差し置き、明治22年からの民法典論争で延期派の中核を担う[9]。なお陳重自身は英仏両派の派閥的感情的争いからは距離を置き、もっぱら学者的見地からの公平な法典批判に徹している[10]

1882年(明治15年)、穂積姓に復帰して渋沢栄一の長女歌子と結婚した。

1885年(明治18年)、司法省の援助を得、増島六一郎菊池武夫らとともに英吉利法律学校(イギリス法律学校。中央大学の前身)を創立。

1888年(明治21年)、箕作麟祥田尻稲次郎菊池武夫鳩山和夫とともに日本で初めて法学博士号を授与される。

1890年(明治23年)3月、主著『法典論』を刊行、欧米各国の法典編纂の歴史・方法を網羅し日本法典の拙速主義を批判、法典断行論者をして反省させるに足るものがあったといわれ[11]、後に明治民法制定の理論的基盤となった[12]

1890年(明治23年)11月、井上馨の三井家政改革において相談役となっていた渋沢栄一・益田孝・三野村利助から、家憲草案の作成を委嘱された[13]

1893年(明治26年)3月、法典調査会起草委員に就任。現行民法典の起草に中心的な役割を果たし[14]、商法にも関与した。

1922年(大正11年)に、起訴便宜主義を法制化した改正刑事訴訟法法案が成立した際には、枢密院の枢密顧問官を勤めていた。

1926年4月8日 、心臓麻痺のため逝去。満70歳没(享年72)[15]。墓所は谷中霊園
学説

穂積は、イギリス留学時代に法理学及びイギリス法を研究するかたわら、法学の枠を超え、当時イギリスで激しい議論の的になっていたチャールズ・ダーウィン進化論ハーバート・スペンサー社会進化論などについて、幅広い研究をした。

その後、ドイツへ転学し、ハインリヒ・デルンブルヒの講義を聴講してドイツ法を研究し、サヴィニーに触発され、日本民法へのパンデクテン法体系の導入のきっかけを作った。

穂積の学説は、歴史学派・進化主義の立場に立つもので、民法典論争では、富井と共に延期派にくみし、断行派にくみする梅と対立した[16]

刑法では、ロンブローゾの生来犯罪人説を研究し、新派刑法理論を日本に紹介した。

進化論的立場から、天賦人権論を厳しく批判するとともに、日本古来の習俗も研究し、法律もまた生物や社会と同様に進化するものと考え、後掲『法律進化論』を完成させ出版することを企図していたが、未完のままに終わっている[17]
年譜

1855年8月23日(安政2年7月11日) - 伊予国宇和島(現在の
愛媛県宇和島市)に宇和島藩家老で国学者の鈴木(穗積)重樹の次男として生まれる。

1868年(明治元年) - 父の同僚・入江佐吉[18]の幼い娘の将来の婿養子として望まれ養子縁組する。

1870年(明治3年) - 貢進生として大学南校に入学[2]

1874年(明治7年) - 開成学校に転学

1876年(明治9年) - 養家の援助で留学しロンドン大学キングズ・カレッジ入学 / 同年中にミドル・テンプル法曹院入学。

1879年(明治12年) - 同校卒業 バリスター(法廷弁護士)の資格を得る。

1880年(明治13年) - ドイツに移りベルリン大学入学

1881年(明治14年) - 同校卒業 帰国。東京大学法学部講師に就任。伊達宗城家令・西園寺公成が渋沢栄一長女との縁談を持ち込み、入江家と縁を切って翌年結婚。

1882年(明治15年) - 東京大学教授兼法学部長に就任。その後、民法のみならず比較法学・法史学・法哲学等の幅広い分野で日本法学の先駆者、開拓者として活躍。

1884年(明治17年) - 法学協会の会誌『法学協会雑誌』の創刊にあたり、論文『民事訴訟用印紙規則に付 本邦と英独の比較』を寄稿。

1885年(明治18年) - 増島六一郎菊池武夫らとともに英吉利法律学校中央大学の前身)を創立。

1888年(明治21年) - 日本国最初の法学博士の学位取得

1890年(明治23年)9月29日 - 貴族院議員に勅選される[19](- 1892年(明治25年)2月まで)

1891年(明治24年) - 大津事件において同郷の大審院長児島惟謙を激励し犯人死刑論を非難。

1893年(明治26年) - 富井政章、梅謙次郎とともに法典調査会主査となり、民法・戸籍法などを編纂。帝国大学法科大学長に就任。

1896年(明治29年) - 民法典公布(1898年(明治31年)施行)。東京学士会院会員となる。

1912年(大正元年) - 大学退職

1915年(大正4年)12月1日 - 男爵叙爵[20]

1916年(大正5年) - 枢密顧問官就任

1917年(大正6年) - 帝国学士院院長に就任

1922年(大正11年)11月20日午後、小石川植物園で開かれた学士院のアルベルト・アインシュタイン夫妻の公式歓迎会に長井長義夫妻らとともに出席。

1925年(大正14年) - 3月30日、枢密院副議長に就任[21]

1925年(大正14年) - 10月1日、枢密院議長に就任[22]

1926年(大正15年)4月8日 - 心臓麻痺のため逝去(享年72)[23]

著作
著書


『法典論
』 哲学書院、1890年3月

Ancestor-worship and Japanese law. Z. P. Maruya & Co., Ltd., 1901.

吉野作造編輯代表 『明治文化全集 第八巻 法律篇』 日本評論社、1929年5月

再刊 明治文化研究会編 『明治文化全集 第十三巻 法律篇』日本評論新社、1957年3月

新版『明治文化全集 第九巻 法律篇』日本評論社、1992年7月、ISBN 4535042497


『法典論』 信山社出版〈日本立法資料全集〉、1991年2月、ISBN 4882611333

『法典論』 新青出版、2008年7月、ISBN 9784915995729


『隠居論』 井上円成〈法理学叢書〉、1891年12月


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