寛延2年(1749年)の夏、備後の国、旧三次藩の町内で暮らす当時16歳の武士の子息、稲生平太郎は、ひょんなことから怪異のただなかに身を置くこととなる。5月、平太郎は隣家に住む相撲取りの権八と肝試しを競うこととなり、三次市にある比熊山に登り、祟りがあるとされる場所におもむく。7月1日の深夜に大きな怪物が平太郎を襲い、それからというもの、一カ月間、毎日奇怪な現象「物怪」に悩まされるようになる。月の終わりの夜、山本 (サンモト) 五郎左衛門と名乗る「魔王」が武士の姿となって現れ、子細を語った後、大勢のもののけの眷属を率いて去っていったというものである[3]。伝承されるにつれて、物語の主軸をなす構成要素(三次・寛延2年・16歳)が削除されたり、逆に魔王が去っていく際に、槌を平太郎に手渡すといった内容が増補される[4]。 その内容の奇抜さから、『稲生物怪録』は多くの高名な文人・研究者の興味を惹きつけた。まず江戸後期に国学者平田篤胤によって広く流布され、明治以降も泉鏡花(「草迷宮」)、稲垣足穂(「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」)、折口信夫らが作品化している。妖怪・怪奇ブームにのり、21世紀に入っても民俗学者の谷川健一や荒俣宏、伝奇作家の京極夏彦らも解説書を刊行(下記参照)。水木しげるも『木槌の誘い』で漫画化。『地獄先生ぬーべー』でも劇中のエピソードで紹介された。また、三次を舞台にした宇河弘樹の『朝霧の巫女』に取り上げられたことで、三次には若い観光客が増えているという。 稲生平太郎の子孫は現在も広島市に在住しており、稲生武太夫の墓所が広島市中区本照寺にある。また、稲生家には、識語に「弘化元年、國前寺へ納める」とある『三次実録物語』が伝来していたが、國前寺に納めたはずの原本は行方不明である[1]。現在、三次教育委員会に寄託された『三次実録物語』は原本の写しと考えられている[1]。 2019年4月、三次市にオープンした「湯本豪一記念 日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)」は稲生物怪録に関する資料を収集しているほか、稲生物怪録に関する常設展示がある[5]。 出版物や報道では「物怪」の読みを「もののけ」としている[6][7][8]が、「ぶっかい」とする意見もある。 国文学者の田中貴子は、著書『鏡花と怪異』において、「ちなみに、ほとんどの人は『いのうもののけろく』と読んでいるが、『国書総目録』では『いのうぶっかいろく』として見出しがあげられている。『物怪』が『もののけ』と読めないことはすでに森正人の指摘があるので、『ぶっかいろく』と音読みすべき」 と指摘した[9]。また自身のブログでも、「『稲生物怪録』について講演しにいったところ、地元の青年会の人が「いのうもののけろく」と言っていました。これが間違いだということをなぜか誰も言いません。間違いです。『国書総目録』ひいてみてください。「いのうぶっかいろく」で出ていますよ。その他にも例はあります。ちゃんと勉強してください」 と批判した[10]。 だが、森の指摘は中世までのものであって近世には当てはまらず、『国書総目録』の読みが絶対に正しいとは言えない[11]。また「物怪」を「もののけ」と読んだ例は『書言字考節用集 2020年5月、国際日本文化研究センターが東京の古書店で所在不明の絵巻を発見し購入。
解説
書名の読み方について
稲生神社稲生神社と稲荷町電停
関連記事