稲生正令
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武太夫はのちに忠左衛門と名を改め、齢70近くにしてもなお気力も充実していたというが[3]、享和3年(1803年)に満68歳でなくなった。

1月7日には、広島市東区の國前寺では彼を祭る「稲生祭」が開かれている。また、三次市三次町の屋敷跡には、稲生武太夫の碑が建てられている。

國前寺本堂裏手の一画の、墓碑群の中の五輪塔の一つが、武太夫の墓である。
稲生物怪録詳細は「稲生物怪録」を参照

稲生平太郎16歳の時、寛延2年(1749年)の5月末の夕方、隣家の三ッ井権八とともに、比熊山で肝試し百物語をしたことがきっかけで、7月1日から30日間のうちに、彼らの身の回りで怪異現象が続出した。このときの彼の体験は、『三次実録物語』という書として記され、原本は広島藩在住の稲生武太夫の子孫に伝えられてきている。妖怪の親玉、山本太郎左衛門から貰った木槌は享和2年(1802年)に平太郎の手により國前寺に納められ、現存している。

また、柏正甫(かつら せいほ)という武太夫の同役の武士が、夜を徹して本人から詳しい話を聞き出して、天明3年(1783年)、『稲生物怪録』として書き留めた。これを国学者、平田篤胤寛政11年(1799年)に筆写して秘蔵し、文化8年(1811年)に門下生に校訂させた。篤胤の校訂本が元になって、読物や絵巻となり、明治以降、泉鏡花巖谷小波の小説、折口信夫俄狂言の題材となった。また、稲垣足穂によって、現代語訳されたりもした。

稲生武太夫を祭っている稲生神社(広島市南区)には、荒俣宏京極夏彦水木しげるも作品取材のために足を運んでいる。
脚注[脚注の使い方]^ 『三百藩家臣人名事典』第6巻、新人物往来社、1989年
^ 『稲生物怪録』巻の上「稲生平太郎出生の事 并三津井権八が事」より
^ 『稲生物怪録絵巻詞書』(堀田家本)より

参考文献

『稲生物怪録絵巻?江戸妖怪図録?』、編者:
谷川健一小学館、1994年。

関連項目

浅野宗恒

比熊山城

三次市

布野村 - 三ッ井権八の出身地

外部リンク

稲生 正令:作家別作品リスト - 青空文庫

日本伝承大鑑 國前寺 稲生武太夫の墓


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