稲城市
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もともとは多摩川の氾濫原であり、平坦な地形である。南山の際には川崎市麻生区黒川を水源とする三沢川が流れている。古代から稲作が行われてきた地域で、江戸期には大丸用水が開削されている。大丸から多摩市連光寺に通じる斜面では奈良時代武蔵国分寺に使用する瓦を焼いており、窯跡が発掘されている(瓦谷戸窯跡)。鶴川街道の拡張など急速に宅地開発が進んでいるが、広々とした敷地に古格のある土蔵が建っている古くからの農家もまだまだ残っている。

市内の多摩丘陵は南山(みなみやま)と呼ばれ、新宿から30分という近さにもかかわらずタヌキ、オオタカなど豊かな自然が残る大規模な里山として知られているが、その東側は現在、区画整理組合方式による宅地開発が行われている。ただし、これに反対する意見も根強い。稲城市東部・西部遠景。手前から矢野口、大丸、向陽台。右手が東長沼。1990年12月、百村から見た稲城駅、よみうりランド方向1990年12月、百村から見た稲城駅、よみうりランド方向2

矢野口(やのくち)
一部が神奈川県川崎市多摩区菅仙谷への飛び地となっている。

押立(おしたて)

東長沼(ひがしながぬま)
近世には長沼村と呼ばれていた。明治になって南多摩郡が設置された時、郡内にもう一つ、現在の八王子市長沼町も「長沼」という地名だったため、東にある長沼ということで東長沼と改称された[2]

大丸(おおまる)

百村(もむら)

西部若葉台の街並み

多摩ニュータウンの東端となる地域である。向陽台は最も早く開発された地域で、駅からの距離は若干遠いものの、中央図書館、市立病院、中央公園などの主要インフラが隣接しており、戸建てと集合住宅の高低差を意識した街造りが評価されて1995年度に都市景観100選大賞を受賞している。長峰は向陽台と若葉台の間の地域である。若葉台は近年急速に開発が進んだ地域で、大型マンションやショッピングセンターが次々に建設されており、ファミリー層が増加している。若葉台は稲城市の中でも独特の土地で、黒川はるひ野や多摩市聖ヶ丘永山など、市外との結びつきが強い。

向陽台(こうようだい)

長峰(ながみね)

若葉台(わかばだい)

南部

坂浜は三沢川沿いの狭隘な地域であるが、比較的古くから人間が住んだ地域であり、稲城市郷土資料室にはこの地域の江戸時代の様子を復元した大型の立体模型が展示されている。三沢川に流れ込む支流が形成した数多くの谷戸で農業が営まれているが、若葉台側の谷戸は急速な宅地化が進んでいる。南側の斜面には駒沢女子大がある。平尾は坂浜から南に高勝寺坂・天神坂を越えた地域で、川崎市麻生区、特に新百合ヶ丘との結びつきが強い。なお平尾には都内で唯一の「十三塚」である平尾十三塚や、平尾入定塚平尾原経塚などの信仰系遺跡が残っている[3]

坂浜(さかはま)

平尾(ひらお)

隣接している自治体・行政区

東 -
川崎市多摩区

北 - 調布市府中市

西 - 多摩市

南 - 川崎市麻生区

歴史
旧石器時代

現在稲城市がある地域は比較的古くから人間が住んだ土地であり、旧石器時代遺跡も多数確認されている。それらの多くは、数点の石器が出土しただけの小規模な遺跡で、約2万年前から1万3千年前のものと考えられている。出土した遺物のほとんどすべてが尖頭器(せんとうき)、細石器(さいせっき)、ナイフ形石器などの石器である。当時の人々はこれらの石器を使い、オオツノジカ、野牛、ナウマン象などの大型獣を追って、丘陵のなかを移動しながら狩猟活動を中心とした生活をしていたと考えられる。
縄文時代

市内最大の縄文遺跡は多摩ニュータウンNo.471・473遺跡(現在の稲城第4公園付近)で、縄文中期の住居跡が数十箇所発見されている。しかし縄文後期に入ると気候の寒冷化や富士山の噴火による降灰によって、市域は縄文人の生活に適さない地域になったと考えられており、この時期以降の遺跡の数は激減している。
弥生時代

弥生時代の遺跡は少なく、集落遺跡は平尾台原遺跡のみである。この遺跡では、弥生時代中期と後期、そして後期末から古墳時代前期にかけて三度にわたり集落がつくられ、住居跡22軒、方形周溝墓5基が発見された。この地に最初に米づくりを伝えた弥生時代人は、平尾台原の地を拠点として集落をつくり、活動していたと見られる。
奈良時代青渭神社(稲城市東長沼)

奈良時代には現在の中央図書館の東側、日帰り温泉施設がある一帯に窯が築かれ、瓦谷戸窯跡や多摩ニュータウンNo.513遺跡(大丸遺跡)で須恵器武蔵国府武蔵国分寺の瓦を焼いていたことが判っている[4]。また市内には式内古社あるいは式内古社論社が三つ存在しており(青渭神社大麻止乃豆乃天神社および穴澤天神社)、古墳時代以降に再びこの地域に一定規模の集落が存在したことをうかがわせる。
平安時代

平安末期には現在の市域は小沢郷に含まれ、武蔵七党のうち秩父党に属する小山田氏の支配となった。小山田氏は多摩川の対岸にあった官牧の小山田牧が私有化された小山田荘を所有した豪族であるが、後に稲毛氏と名乗り、鎌倉幕府の有力御家人となる。
鎌倉時代

稲毛氏は鎌倉時代も引き続き武蔵国小沢郷(現在の大丸から矢野口)を所有した。しかし北条時政執権の時、稲毛重成・小沢重政の父子は畠山重忠とともに滅ぼされている。その後、小沢郷は、重成の妻が北条政子の妹だった縁で北条氏の支配下に入ったと考えられている。またこのころ、大丸遺跡には砦(大丸城)が築かれていた。14世紀には現在の坂浜地区に高勝寺が創建されているが、この寺に所蔵されている聖観音像(もとは同じ坂浜の妙福廃寺のもの)は12世紀半ばの制作と推定されている。また東長沼の常楽寺は寺伝では行基の開基とされているが、少なくとも本尊の阿弥陀如来像は12世紀前半まで遡るものと考えられている。
南北朝時代

南北朝期には市域も足利尊氏足利直義の戦闘の舞台となり、穴澤天神社の南にある小沢城が尊氏側の部隊によって焼き払われている。この時期の小沢郷は摂津親秀を当主とする摂津氏が所有していたが、親秀の孫の満親は小沢郷を京都の南禅寺に寄進してしまう。その後の小沢郷の消息は文献上はしばらくたどれない。
戦国時代

次に小沢郷が文献に登場するのは戦国時代である。小沢城は世田谷城などとともに、後北条氏の支配下にあり、1530年享禄3年)には上杉朝興の部隊に攻め落とされるなど、最前線の軍事拠点となっていたことがわかる。後北条氏の家臣団で小沢郷を与えられていたのは垪和氏である。北条氏照八王子城で戦死し後北条氏が滅亡すると、氏照に従っていた市域の武士たちは帰農したり、あるいは徳川家に仕えて旗本となったと考えられている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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