移住者
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そのため、一般的に移民は、巨視的な移住現象(社会全体に影響しうる程度のもの)、又はそれを構成する個々の移住者を意味している(場合によってその子孫が含まれることもある)。

一方、相対的に移住者数が少数である国籍等の場合、移民ではなく、単なる移住者とみられる。例えば、日本には欧州諸国(欧州文化地域)からの移住者が多少居住するが、日本の人口に比してその規模が非常に小さく、通常の社会・政治論ではこれを移民現象として捉えない。なお、より経済力のある豊かな国へ裕福な生活を求めることが多数の移民の動機になっていることから、移民が「経済的移民」を指すことも少なくない。

さらに、英訳の「イミグレーション」(Immigration)は、国の入国管理事務も意味しているため[15]日本語の「移民」より、語義が広範(曖昧)な言葉になっている。こうした定義の曖昧さが移民問題の議論を難しくする要因の一つである。

またSFなどで宇宙移民について描かれることもある。
統計

OECD各国における永住入国移植者の分類(2021年)[9].mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  労働者の家族 (8%)  家族 (35%)  自由移動 (24%)  人道的 (9%)  労働 (18%)  その他 (7%)

国際労働機関(ILO)は、2017年時点で世界の移民労働者数が推計1億6400万人、移民全体が同2億7700万人おり、いずれも前回調査(2013年時点)より増加しているとの報告書を2018年12月5日に公表している[16]

OECDの統計では、以下の5分類にて分類される[1]
労働移民(Economic migrant)

労働移民と共に入国する家族

家族の呼び寄せ

人道上の理由による移民と、その家族

その他(血統に基づく移民、年金生活者など)

法制度
アメリカ合衆国

米国政府が発給する外国人へのビザは、大きく「移民ビザ(Immigrant Visa)」と「非移民ビザ(Non Immigrant Visa)」に分けられる[17]

移民ビザは「Permanent resident Visa(永住権)」とも呼ばれ、滞在期限や活動(就業)に一切の規制がない。一方で「非移民ビザ」は、滞在期限や滞在中の活動(就業可・不可やその職種・条件など)に制限があり、非移民ビザによる滞在の外国人は住居の有無・就労・滞在期間に関わらず全てVisitor(訪問者)として扱われる。

すなわち、米国政府は移民とは「永住権所持者」と定義している。なお、日本の自民党特命委員会が提案している「入国時に在留期間の制限がない者」は、この定義に近い。(ただし、米国永住権は期間だけではなく在留中の活動にも制限がない)

対して、一般市民の認識では「永住権所持者」と「帰化米国籍者(他国で出生した後に米国へ移住し米国籍を取得した者)」の両方を含めて「移民」と呼ぶ事が多い。
フィリピン

フィリピン政府が移民法に基づき発給するビザには、割当移民ビザ(Quota Immigrant Visa)や非割当移民ビザ(Non-Quota Immigrant Visa)がある[18]

割当移民ビザは、移民法13条に基づき、対象国ごとに一年あたり定められた人数まで発給されるビザである[18]

非割当移民ビザは、移民法13条に基づき、フィリピン人と結婚した者などを対象として発給されるビザである[18]
歴史詳細は「人の移動の歴史」を参照
国民と移民

数千年前から現象として起きている「人の移動」(人類のアフリカ単一起源説を参照)に対して、日本語移住とは広義においての「国内での地域間での人々の移り住み」も含まれる。狭義においての移民は、「ある国家国民が別の国家に移り住むこと」を指す事が多い。市民権国籍を管理するようになったのは国民国家の形成以降であるから、移民とは一般に近代の概念である。19世紀に進展した国民国家の形成において国籍法の整備と国境の画定により国民を登録して管理するようになり、国民と移民が法律上、明確に分けられることになった。
植民

帝国主義時代の下、ヨーロッパ諸国がアメリカ大陸アジアアフリカ大陸で獲得した植民地では、植民地経営のために政策的にヨーロッパからの植民がなされた。アフリカからの奴隷貿易も行われた。その後、世界的な奴隷制度廃止に伴い、鉱山や農園(プランテーション)開発や鉄道建設のため、アジアでも人口が多い地域(中国大陸など)からの労働移民が東南アジアやアフリカ大陸に渡った。

東南アジアにおける植民地経営を支えていたのはイギリスマレー半島ゴムオランダインドネシア農業生産などであり、そこで必要とされた労働力は中国南部やインド南部から調達された。彼らの多くは契約労働者であったが、現地に定住する者も少なくなかった。これに伴い商業活動に進出する者も増え、これらの中国系移民(華僑華人)とインド系移民(印僑)は、その後、東南アジア各地で大きな影響力を持つこととなった。

アフリカへの移民としては南アジアとりわけインドからの人々が多く、イギリス帝国の下ではイギリス領植民地相互の植民も行われた。
19世紀・移民の世紀

18世紀までのヨーロッパからの移民が主に年季契約の形をとった労働移民であったのに対し、19世紀には自由移民が主流となった。19世紀のヨーロッパでは、産業革命の影響等による人口の増大や交通機関の発達などにより大規模な人口移動がおこった。各国では人口の都市への集中が見られた一方で、海外移民も増加した。第一次世界大戦までの100年間に新大陸に渡ったヨーロッパ人は6000万人に達し、19世紀は正に「移民の世紀」であった。

最大の移民受け入れ国はアメリカ合衆国であり、その数は1821年から1920年までの100年で約3300万人とされる。その前半には北・西ヨーロッパから、その後半は南・東ヨーロッパからの移民が到来し、これは各国の工業化の進展の時期のずれを示している。人口増加や貧困などの経済的な要因だけでなく、迫害を受けたユダヤ人のように政治的・宗教的な要因からの移民も行われた。また19世紀半ばにアフリカからの黒人奴隷が解放されると、中国やインドから労働者を雇い入れ、不足する労働力を補った。

なお、アメリカ大陸・オーストラリア南アフリカにおける黄色人種モンゴロイド)のアジア系移民はヨーロッパ系の白人労働者と競合したため、「黄禍」として排斥されたり、移民を制限されたりすることもあった。1870年代にはカリフォルニア州中国人中国系アメリカ人)排斥の動きが高まり、1882年には中国人移民禁止法アメリカ合衆国議会で成立した。1924年にはアメリカ合衆国でとりわけ日本人移民(日系アメリカ人)を制限する「排日移民法」が制定され、日本で「アメリカ政府は人種差別的である」とする反米感情が生まれた。

オーストラリアではアジア系移民の市民権を容認しない「白豪主義」が採用された。南アフリカではこの後、厳しい人種隔離政策である「アパルトヘイト」が長い間継続された。

冷戦終結、東欧革命による共産圏国家の崩壊以降の近年[いつ?]は欧州連合(EU)統合とシェンゲン協定加盟国内の旅行が自由となった影響で、旧東側諸国東ヨーロッパから旧西側諸国西ヨーロッパへの移民が増加している。
ヨーロッパにおける移民欧州連合への入国移民の出身国トップ

ヨーロッパにおける移民は、おおむね欧州大陸圏内での移住と、北米(アメリカ合衆国とカナダ)からイギリスへの移住、イスラム圏(北アフリカ中近東諸国・インドネシア)からの流入が大勢を占めている。


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