隣接市町村数は15で県内最多で、埼玉県の基礎自治体(市町村)では唯一南隣の東京都と北隣の群馬県の両方に接している。山梨県、長野県との県境もある。隣接都道府県数4は全国の市区町村中最多で、岐阜県高山市および京都府南丹市と並ぶ。body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper{margin-top:0.3em}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ul,body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ol{margin-top:0}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper--small-font{font-size:90%} なお甲州市、丹波山村、奥多摩町とを直接結ぶ車道は無いため、自動車で往来する場合は他自治体を経由する必要がある。 現在の秩父市を含む地域は元は知々夫国と呼ばれ知々夫国造に支配されていた知々夫国は无邪志国造の支配した无邪志国と合わさって、7世紀に令制国の武蔵国となった。 708年(和銅元年)に、現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡付近から、和銅(にぎあかがね、純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出した。これが朝廷に献上された事を記念して「和銅」に改元するとともに、和同開珎が作られたとされる。 現在の市域の中心部は、古く中村郷と呼ばれ、秩父盆地の中央にあることから物資の集散地であり、秩父神社の門前町として栄えた。そのため、後には大宮郷(おおみやごう)と呼ばれるようになり、自治体名も1915年までは大宮町(おおみやまち)であった。 1884年(明治17年)に秩父事件が起こる。同事件は、負債に悩む秩父の農民たちが結成した「困民党」と呼ばれる組織を中心とした武装蜂起であり、最盛期には小鹿野や吉田、さらには郡都大宮郷(現在の秩父市)等を武力占拠した。これに対し政府は、警察と憲兵隊、最終的には東京鎮台兵まで動員し、徹底的な武力鎮圧を図った。事件後の裁判の結果、死刑7名を含む4000名余が処罰された日本史上最大規模の民衆蜂起とされる。
隣接している自治体
埼玉県
飯能市
比企郡ときがわ町
秩父郡小鹿野町、東秩父村、皆野町、横瀬町
児玉郡神川町
群馬県
藤岡市
多野郡上野村、神流町
東京都
西多摩郡奥多摩町
山梨県
甲州市
山梨市
北都留郡丹波山村
長野県
南佐久郡川上村
歴史
1871年(明治4年) - 入間県に所属[3]。
1872年(明治5年) - 大区小区制施行により、第10大区1・2・3・5・6小区、第11大区3・6小区に所属[3]。
1873年(明治6年) - 熊谷県に所属する[3]。
1873年(明治6年) - 大宮学校(秩父第一)、郷平学校(太田)、浦山小学校が開校。
1874年(明治7年) - 久那学校が開校。
1875年(明治8年) - 影森学校が開校。
1876年(明治9年) - 埼玉県に所属[3]。
1878年(明治11年) - 市街地にて大火が起こり44軒が焼失。
1879年(明治12年) - 郡区町村編制法施行に伴い、秩父郡に所属[3]。
1884年(明治17年) - 大宮学校の校舎(現:秩父市立民俗博物館)が竣工。
1885年(明治18年) - 知新学校(尾田蒔)、旭小学校(原谷)、高篠小学校が開校。
1886年(明治19年) - 秩父新道(本庄 - 大宮郷間)が開通[4]。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、秩父郡大宮郷・別所村が合併し、大宮町となる。
1892年(明治25年) - 郵便局にて電信の取り扱いが始まる。
1895年(明治28年) - 熊谷 - 大宮町新道(現:国道140号)が開通。
1911年(明治44年) - 電話が引かれる。
1914年(大正3年) - 秩父鉄道が秩父駅まで開通する。
1916年(大正5年)1月1日 - 大宮町が町名を変更し、秩父町となる[5]。これは、秩父郡の中心にあることのほか、1914年に開業した秩父鉄道の駅が郡名を採って「秩父駅」となったことや、同県内の北足立郡大宮町(現:さいたま市)との混同を避けるためといったことが理由として考えられている。
1922年(大正11年) - 電燈が点く。汽車が電車となる。
1923年(大正12年) - 秩父セメント工場が開設される。
1924年(大正13年) - 市街地に水道が敷かれる。
1930年(昭和5年)