[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

紀元前229年、王翦の策により、李牧は誅殺され、司馬尚は更迭された[15][20][23][24]

紀元前228年、趙を滅ぼした。逃げ延びた趙の大夫らは代の地で幽繆王の兄の公子嘉を擁立し代国とした[注 10][20][21][22]
燕との戦いと、魏の滅亡

紀元前227年、燕の太子丹刺客荊軻を送りこんだ。政の暗殺に失敗し、難を逃れた政は激怒した。紀元前226年、燕を攻め滅亡寸前に追い込んだ。燕王喜らは遼東に逃亡した。

紀元前225年、魏の都の大梁を攻め、魏を滅ぼした[25][26][22]。これにより三晋はすべて滅んだ[22]
楚と燕、斉の滅亡

同年、李信蒙恬に侵攻したが項燕の奇襲により、大敗した[27][28]

紀元前223年、秦の将軍王翦が楚を滅亡させ[22]紀元前222年に代と燕を滅ぼし[29][注 11][30][22]紀元前221年には斉を滅ぼし中国を統一した[30][22]
中華統一「秦朝」も参照

秦王政は中華統一後、自ら皇帝を名乗ったが、これを中国で初めて称したことから、始皇帝(秦始皇)と呼ばれた[31]。この称号は、伝説上の聖王である三皇五帝からとったものとも言われるが、『史記』秦始皇本紀によると、大臣や博士たちが「古に天皇(てんこう、日本の天皇とは別)、地皇泰皇が有り、その内で最も貴い泰皇を名乗りましょう」と勧めたが、政は「泰皇の泰を去り、古()の君主が名乗っていた帝を付し、皇帝と名乗ろう」としたものと有る。

始皇帝は度量衡・文字の統一[32]、郡県制の実施など様々な改革を行った[31]。また、匈奴などの北方騎馬民族への備えとして、それまでそれぞれの国が独自に作っていた長城を整備し万里の長城を建設、それに加えて阿房宮という増大な宮殿の建築も行った。万里の長城や阿房宮の建設には主に農民を使役させていた。なお焚書坑儒などの思想政策も断行したが[33]、ただでさえ過酷な労働と極度の法治主義に儒教弾圧まで加えたことで、全国の不満を高めてしまい、のちの反乱の芽を育てる原因となってしまう。

匈奴に対しては、蒙恬を派遣して、北方に撃退した。さらに、南方にも遠征し、現在のベトナム北部まで領土を広げた。このとき、南方には、南海郡(現在の広東省広州市)・桂林郡(現在の広西チワン族自治区桂林市)・象郡(現在のベトナム北部、前漢以降は日南郡と呼んだ)の三つの郡が置かれた。これは、中国王朝による南方支配の始まりでもある。秦朝の行政区分

秦朝は全国を36郡に分け、中央政府が支配する領土を広げるごとに、新たな郡を次々に置いた。五嶺の南、南越を支配した領土には、南海・桂林及び象郡の3郡を、北に匈奴を攻めて陰山以南を切り取った地には九原郡(現在の包頭市南西)を置いた。

また不老不死に関心を持ち始めた始皇帝は国外への探索を命じるほどで、配下の中には徐福のように船で日本まで出向いたとされる者もいる。しかし必要とあらば自らも現地に赴くほどの過労や人体に有毒な水銀すら不老不死の薬と信じて服用していた始皇帝は、逆に自身の寿命を縮めてしまう。
混乱と滅亡秦末の反乱

紀元前210年、始皇帝が死去した。巡幸中での始皇帝の死去を丞相李斯と共謀して隠したのが、身辺の世話をしていた宦官趙高で、長男の扶蘇ら始皇帝の公子12人公女10人をはじめ、その臣下、血縁者数万人を処刑し、暗愚な二世皇帝を傀儡として、権力をほしいままにして暴政を布いた。始皇帝が死んだことでたがが緩み、翌年には陳勝・呉広の乱が勃発、全国に飛び火して、騒乱状態となった。

二世皇帝と趙高から討伐軍の将軍に抜擢された章邯は軍事的能力を発揮し、陳勝軍を撃破すると、さらにその後を受けた項梁軍も撃破した。しかし、項梁の甥の項羽との決戦に敗れ、捕虜となる。その後、投降した秦兵20万も咸陽に向かう途中で、造反の気配を見せたと誤解した項羽によって穴埋めに遭い、殺されてしまった。

その間、李斯を冤罪で殺害し権力を独占した趙高だったが、章邯の大敗と、さらには劉邦が咸陽近くにまで迫っていることを聞き、狼狽する。そこで二世皇帝に暴政の汚名を着せた上で暗殺し、子嬰を王に立てて民意の安定を図るも、子嬰らによって誅殺された。

紀元前206年、咸陽へ入城した劉邦に子嬰が降伏したことで、秦は滅亡した。劉邦から生命を保証された子嬰だったが、後から咸陽にやってきた項羽によって、一族もろとも殺害されてしまう。その上、阿房宮から美女や財宝を略奪されて、火をかけられた咸陽は廃墟となった。そして、項羽は秦の土地を三つに分けて、雍王(章邯が王となる)、塞王(司馬欣が王となる)、?王(董翳が王となる)が王に封じられ、三秦と名付けられた。
政治

秦の制度の多くは漢によって引き継がれ、共通する部分は多い。漢の治世が前後で約400年も続いた理由の一つは、人民の反発を受けることなく秦の制度を踏襲できたことが挙げられる。

秦の成立は単なる中国統一と言うことに終わらず、皇帝号の創始・行政区分の確立・万里の長城の建築などの点で中国と呼ばれる存在を確立したという意味で非常に大きい。そのために秦以前のことを先秦時代と呼ぶこともある。
官制

秦の官制は前漢と同じく丞相(首相)・太尉(軍事)・御史大夫(監察・あるいは副首相)の三公を頂点とする三公九卿制である(詳しくは前漢を参照)。

地方制度では商鞅の改革時に全国を31(あるいは41)のに細分し、それぞれに令(長官)と丞(副長官)を置いた。統一後に李斯の権限により、この制度をさらに発展させたのが郡県制である。県の上に上級の行政単位であるを置き、郡守(長官)・丞(副長官)・尉(軍事担当)・監(監察官)をそれぞれ置いた。県の長官・副長官は変わらず令と丞である(区別して県令・県丞と呼ばれることもある)。統一すぐには旧制に倣った封建制の採用も考えられたことがあったが、李斯の反対により郡県制が採用され、全国に36の郡が置かれたと言う。この郡県制も基本的には漢によって引き継がれ、これ以降の中国の地方制度でも基本となっている。
法制

秦といえば商鞅により作られた法家思想による厳しい律令国家であるというイメージだが、実際にどのように法律が運用されていたかは資料が乏しく分からないことも多い。

漢の蕭何は劉邦に伴って咸陽に入城した際に秦の書庫から法律の書物を獲得し、後にこれを元として「律九章」と呼ばれる法律を作ったという。であるから漢初の法律は秦の法律を基本としていると考えて良いだろう。この「律九章」は盗・賊・囚・捕・雑・具・興・厩・戸の九律があったと『晋書』にはある。しかしこの記載が『漢書』にはないので、この記事自体を疑う声もあるが、ともあれ秦の法律に関する資料の一つである。

そして秦の法律に関する一次資料として『睡虎地秦簡』と呼ばれるものがある。これは1975年湖北省雲夢県で発掘された秦の法官であったと思われると言う人物の墓に入れてあった竹簡群で、秦の法律に関する事柄が記載されている。
経済

始皇帝は中国統一後に度量衡の統一、それまで諸国で使われていた諸種の貨幣を廃止して秦で使われていた半両銭への統一、車の幅の統一などを行った。

ただし、近年の研究や出土史料によれば、一般に言われる始皇帝によるとされる、度量衡の統一や過酷な法律については、再考の余地があるようである。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:90 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef