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紀元前770年、周の幽王申侯の反乱に遭い、侵攻した犬戎鎬京が荒され、幽王と褒?、太子の伯服(中国語版)が殺された[2][3]。この時、襄公は兵を率いて周を救うために戦った。申侯により平王が擁立されて洛邑に東遷した際も、周の洛邑東徙で周の平王を護衛したため、平王から諸侯に封じられ、岐山以西の地を賜り、伯爵となった。これ以降諸侯の列に加わる。紀元前762年に秦が最初に興った場所は犬丘(現在の甘粛省礼県)であったらしく、秦の祖の陵墓と目されるものがこの地で見つかっている。
早期の歴史

春秋時代に入ると同時に諸侯になった秦だが、中原諸国からは野蛮であると蔑まれていた。代々の秦侯は主に西戎と抗争しながら領土を広げつつ、法律の整備などを行って国を形作っていった。前762年、2代君主の文公は?水・渭水の合流地点(秦)に行き、「昔、孝王が我が祖先の秦?をこの地に封じられたため、のちに諸侯になることができた」と言って吉凶を卜したところ、吉とあったので、邑をここに営んだ。紀元前714年には平陽へ遷都。紀元前677年には首都を(現在の陝西省宝鶏市鳳翔区の南東)に置いた。
覇者

穆公百里奚などの他国出身者を積極的に登用し、巧みな人使いと信義を守る姿勢で西戎を大きく討って西戎の覇者となり、周辺の小国を合併して領土を広げ、隣の大国にも匹敵する国力をつけた。晋が驪姫による驪姫の乱で混乱すると、秦は恵公を後援し擁立した。恵公は背信を繰り返したので、これを韓原の地で撃破した(韓原の戦い)。更に恵公が死んだ後に恵公の兄の公子重耳を晋に入れて即位させた。この重耳が晋の名君の文公となり、その治世時には晋にやや押され気味になった(?の戦い(中国語版)、彭衙の戦い)。紀元前628年の文公死後、再び晋を撃破して領土を奪い取った。これらの業績により、穆公は春秋五覇の一人に数えられる。紀元前621年、穆公が死んだ時に177名の家臣たちが殉死し、名君と人材を一度に失った秦は勢いを失い、領土は縮小した。
戦国時代紀元前260年の戦国七雄

戦国時代には七雄の一つに数えられる。隣国の晋は内部での権力争いの末にの三国に分裂した(晋陽の戦い)。この内の魏が戦国初期には文侯により強勢となり、秦は魏により圧迫を受け、領土を奪われる(洛陰の戦い(中国語版))。紀元前383年献公櫟陽(れきよう、現在の陝西省西安市閻良区)に遷都した。

この状況に憤慨した25代孝公は広く人材を求め、頽勢を挽回することのできる策を求めた。これに応じたのが商鞅である。商鞅は行政制度の改革・什伍制の採用などを行い、秦を強力な中央集権体制に変えた(詳細は商鞅の項を参照)。この商鞅の変法運動に始まる秦の法治主義により国内の生産力、軍事力を高め徐々に他の六国を圧倒していった。紀元前350年(現在の陝西省陽県)付近に城門・宮殿・庭園を造営して遷都し、都の名を咸陽と改めた。

その後、孝公の子の恵文王紀元前324年に王を名乗る。強勢となった秦を恐れた韓・趙・魏・の五カ国連合軍が攻めて来たが、樗里疾がこれを破った(函谷関の戦い)。紀元前316年に恵文王は巴蜀(中国語版)(現在の四川省)を占領し(秦滅巴蜀の戦い(中国語版))、この地の開発を行ったことでさらに生産力を上げ、長江の上流域を押さえたことで楚に対して長江を使った進撃を行えるようになり、圧倒的に有利な立場に立った。さらに謀略に長けた張儀を登用して、楚を引きずり回して戦争で撃破し(藍田の戦い)、楚の懐王を捕らえることに成功する。この強勢に恐れをなした魏と韓の王達をそれぞれ御者と陪乗にするほどにまで屈服させた。だが、恵文王の子の武王との確執により張儀が魏に亡命し、さらに韓との戦いで多くの兵を失ったうえに、自身は突如事故死し後継者争いが起きてしまい戦力が後退していってしまう。

紀元前298年、斉の宰相の孟嘗君が韓・魏との連合軍を組織し、匡章を統帥として秦に侵攻した(函谷関の戦い (紀元前298年))。秦が函谷関に追いつめられると趙・も加わり五国連合軍となったため、秦は使者を送って講和を求めた。この後、東では斉が伸張し、宋を併合するなど、周辺諸国を圧迫していった。紀元前288年には斉の?王が東帝、秦が西帝と名乗るとした。この案は斉がすぐに帝号を取りやめたので、秦も取りやめざるを得なかったが、この時期は西の秦・東の斉の二強国時代を作っていた。しかし斉は強勢を警戒された上に周辺諸国から恨みを買い、孟嘗君が魏へ逃亡すると、燕の楽毅が指揮する五国連合軍により、都の臨?が陥落(済西の戦い)。斉は亡国寸前まで追い詰められ、東の斉・西の秦の二強国時代から秦一強時代へと移行した。

恵文王の子で、武王の異母弟の昭襄王の時代に宰相の魏?白起将軍の活躍により、幾度となく勝利を収める。その時、魏より亡命してきた范雎を登用した昭襄王は、その提言を次々と採用した。まず、魏?や親族の権力があまりにも大きくなっている現状を指摘され、魏?らを退ける進言を受け入れた。次に范雎から進言されたのが有名な遠交近攻策である。それまで近くの韓・魏を引き連れて、遠くの斉との戦いを行っていたのだが、これでは勝利しても得られるのは遠くの土地になり、守るのが難しくなってしまう。これに対して遠くの斉や燕と同盟して近くの韓・魏・趙を攻めれば、近くの土地を獲得できて、秦の領土として組み入れるのが容易になる。この進言に感動した昭襄王は范雎を宰相とした。

紀元前260年に趙への侵攻軍を率いた白起は、長平の戦いで撃破した趙軍の捕虜40万を坑(穴埋めにして殺すこと)した。しかし大戦果を挙げた為、范雎から妬まれ、趙の都を落とす直前で引き返させられた。紀元前259年、将軍を王?に替えて再び趙を攻めた秦軍は、趙の平原君のもとに援軍として現れた魏の信陵君と楚の春申君の活躍によって阻まれた(邯鄲の戦い(中国語版))。この為、大将に再任されようとした白起だったが、先の件から不信を持って王命を拒否した結果、死を賜った

これと時を同じくして敵国の趙で人質生活を送る子楚(昭襄王の孫のひとり)を見つけた商人の呂不韋が、子楚に投資をし始める。孝文王(昭襄王の子)の後、荘襄王として即位できた子楚は、呂不韋の愛妾でもあった趙姫との間に、子を儲けた。それが政である。紀元前256年楊摎の進軍を妨害した、東周西周公は秦の支配下に入り、程なく赧王文公が死んだため、完全に周は滅びその領地を接収したものの[4]紀元前247年には魏の信陵君が率いる五カ国連合軍に攻め込まれた秦では、王?と蒙?の迎撃軍が敗退し函谷関まで撤退させられた(河外の戦い)。そこで信陵君に関する流言飛語を実践すると、魏の安釐王に疎まれた信陵君が国政の中枢から外されたため、秦は危機を脱することができた。
統一戦争詳細は「秦の統一戦争」を参照蓁の統一戦争による領土の拡大始皇帝

紀元前247年秦王政が13歳で即位するも、実質的な権力は商人の身から先代王の宰相となっていた相国呂不韋が握っていた。紀元前245年、魏と初陣。韓へも侵攻。紀元前241年、趙・楚・魏・韓・燕[注 8] の五カ国合従軍が攻めてきたが、函谷関の戦いで撃退した[5][6][7][8][9]。その後も王弟の長安君成?の反乱や母の趙姫と愛人の??の反乱が起きた[10]紀元前238年に??の乱に連座して呂不韋が失脚し、政が実権を掌握した。
韓と趙の滅亡

紀元前236年、趙の?王翦桓?楊端和が落とし、統一戦争が始まった[注 9][11]


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