秦彦三郎
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同年8月9日、ヤルタ協定に基づきソ連軍満州朝鮮に侵攻し、同月18日、満州帝国滅亡。同年8月19日、山田乙三関東軍総司令官と秦は瀬島龍三中佐らを伴い、ジャリコウヴォのアレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥(極東ソ連軍総司令官)との停戦交渉を行った。

1945年12月2日A級戦犯として連合国軍最高司令官より出された第3次逮捕命令のリストに後宮淳大将と共に名前があった[1]が、既にソ連軍により捕らえられシベリア抑留の身であった。1956年12月26日に復員
逸話

ロシア語に長ける秦は大佐(陸軍省新聞班長)の頃、ユダヤ系ロシア人の家に下宿して『隣邦ロシア』と言う本を出版している。

栄典
位階


1913年(大正2年)2月20日 - 正八位[2]

勲章等


1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[3]

外国勲章佩用允許


1941年(昭和16年)12月9日 - 満州帝国建国神廟創建記念章[4]

脚注[脚注の使い方]^ 梨本宮・平沼・平田ら五十九人に逮捕命令(昭和20年12月4日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p341 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
^ 『官報』第167号「叙任及辞令」1913年2月21日。
^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
^ 『官報』第4632号 付録「辞令二」1942年6月20日。

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