科挙
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一方、科挙は今日の世界で標準試験(英語版)の起源であり[5]、19世紀から欧米は西洋の学問にこのメリット・システムを取り入れた[6]
歴史

科挙はの文帝によって始まる。隋より前の六朝時代には、世襲貴族が家柄によって官僚になるという貴族政治が行われていた。それまで採用されていた九品官人法は、貴族勢力の子弟を再び官僚として登用するための制度と化しており、有能な人材を登用するものとは到底言いがたい存在であった。文帝は優秀な人材を集め、自らの権力を確立するため、実力によって官僚を登用するために科挙が始められた。九品官人法は廃止され、地方長官に人材を推薦させたうえで科挙による試験が行われた。推薦よりも試験の結果に重きを置かれ、官僚の採用が決定されることとなった。

隋代の科挙は、秀才明経明法・明算・明書・進士の六科からなり、郷試省試の二段階であった。隋は二代で滅びるが、科挙はその後、に受け継がれた。

唐では、秀才、進士、明法、明書、明算などの科目が設けられた。はじめは秀才科がもっとも重んじられていたものの、受験者が不合格になるとそれを推薦した地方長官まで処罰されたため、受験者が減少し、やがて廃止された。その後、明経と進士の両方が主な科目となる。しかし、経書の単純な暗記能力を試すのが中心であった明経科は軽んじられ、「詩」と「賦」を主な試験内容としていた進士科がもっとも尊重されるようになった[7]。中唐では、進士科は受験者1000人に対し、合格者が1%から2%、その次に重んじられた明経科では、受験者2000人に対し、合格率10%から20%であった。進士科は、当時、士大夫に重んじられた教養である経書、詩賦、策(時事の作文問題)が試験に行われ、合格者は格別に尊重された。進士科合格者は唐代では毎年、30名ほどであった。

最終試験である省試への受験資格を得るために、国子監の管理下にあった六学(国子学、太学、四門学、律学、書学、算学)を卒業するか、地方で行われる郷試に合格する必要があった。省試は吏部の管理下にあったが、開元24年(736年)に礼部に移された。原則として毎年行われており、合格者の再試験である覆試もたびたび実施されている。このときに不正が発覚し、試験官が左遷させられることもあった。

受験資格は、当時の他の諸国に比べると、広範囲にわたる。しかし、女性、商工業者、俳優、前科者、喪に服しているものなどは受験が許されていなかった。このため、商人の子弟である李白が科挙を受験できなかったという説がある。

唐代では科挙は郷試・省試の二段階であったものの、省試の合格者が任官されるためには、吏部において実施される吏部試を受験しなければならなかった。吏部試では「宏詞科」もしくは「抜萃科」が課せられ、「身」「言」「書」「判」と呼ばれる四項で審査された。「身」とは、統治者としての威厳をもった風貌をいう。「言」とは、方言の影響のない言葉を使えるか、また官僚としての権威をもった下命を属僚に行えるかという点である。「書」は、能書家かどうか、文字が美しく書けるかという点を問われ、「判」は確実無謬な判決を行えるか、法律・制度を正しく理解しているかということを問うた。そこには貴族政治の名残りが色濃く見られる。

加えて省試の責任者である知貢挙は、その年の進士合格者を門生として知貢挙を座主とする師弟関係を結んだ。これがのちの朋党を生む原因となった。また、人物の評価を考慮した判断が重視されたために事前運動も盛んに行われ、知貢挙に「行巻」「投巻」という詩文や、再度「温巻」という詩文が受験者から贈られた。受験者が高官たちにも詩文を贈ることを「求知己」とよばれ、その援助を受けることを「間接」とよばれた。唐代の高官たちは、知貢挙に合格者を「公薦」(公的な推薦)することが許され、受験者の名簿を閲覧する「通榜」も行われている。これは腐敗が入りこむ余地が大きかった。いずれにしてもこれらの問題点については、宋代に改められることとなった。

一方で、隋から唐の時代には300年を超える試行期間を経て個人の能力を試験によって評価する科挙制度の体制が作られつつあったが、唐代になっても要途の官僚を膏梁や世冑と呼ばれる世襲の特権階級が占めていた[3]。それでも中唐以降になると科挙出身者の勢力が拡大・拮抗しはじめ、次第に科挙出身の官僚が主流を占めることとなった。

唐代の科挙においては『五経正義』が成立し、この書物により儒教経書に公式の統一解釈が存在するようになり、明経科の試験は行われた。『五経正義』の成立は儒教に一定の地位と根拠を獲得した面もあるが、同時に『五経正義』に基づく注釈が正解という影響を及ぼした[8]
殿試の様子

唐が滅んだあとの五代十国時代の戦乱の中で、旧来の貴族層は没落し権力を握ることはなくなった。北宋を建てた趙匡胤は文治を旨として科挙制度を整備し、皇帝自らが臨席のうえで審査にあたる殿試を、最終試験として課した。殿試の魁選に一甲及第した進士は「状元」「榜眼」「探花」を総称して三魁と呼ばれた。殿試の実施によって、科挙に合格した官僚は皇帝自らが登用したものという感覚が強まり、皇帝の独裁体制を強めるものとなった。

宋代当初は受験科目が進士科と諸科に大きく分けられていたが、王安石の行った科挙制度の改革によって諸科がほぼ廃止され、科目が進士一科に絞られた。本来、進士科は詩文などの才能を問う要素が強かったが、このときより経書歴史政治などに関する論述が中心となった。また、初めて『孟子』が受験必修の書として定められた。王安石のあとに司馬光率いる旧法党が政権を執るが、科挙に関しては旧に復することもなくさらに変更が加えられ、進士科の中に経義を選択するもの(経義進士)とその代わりに詩賦を選択するもの(詩賦進士)が設けられた。北宋の第2代皇帝の太宗もまた太祖の路線を踏襲し、科挙による文官の大量採用を行い、監察制度を整え、軍人政治から文治主義への転換をなした。

答案が誰の手により作成されたものかを事前に試験官に分からないように答案の氏名を糊付して漏洩を防止する糊名法や、記述された答案の筆跡による人物判別を防止するため答案を書き改めた謄録法が採用されたのも宋代である。呉自牧著『夢粱録』には、南宋における科挙の実施に関する記事が示されている。

一方で唐中期から五代にかけての社会変革を経て、科挙制を軸とする官僚制が成立した宋の時代になっても、子孫や親族に官位職階を当てる任子(恩蔭)の制度は完全には崩壊せず、新しい時代に合わせて再編成されていった[3]趙翼は『二十二史箚記』で宋代の恩蔭の制度について「宋の恩蔭濫」とする一項を立て、宋代ほど任子が与えられた時代はないとしている[3]。宋代には科挙出身者が圧倒的に優勢になり、恩蔭出身者は下風に置かれていたが、賈昌朝、陳執中、梁適など恩蔭出身者から高官となった者もいた[3]

南宋に入ると、官学生や科挙応試者に対する役法・税法上の優免が慣習として成立し、官と民の間に「士人」と呼ばれる知識人階層が形成される。彼らは階層内部での婚姻を重ねる一方、在地における指導者としての立場を形成していく[9]

宋代の科挙においては特定地域の出身者に偏らないように、会試段階での及第者数の定員が地域ごとに定まっていたものの、省試段階になっていくと試験官が自己の出身地域に有利な評価を下すことがあり、特定の地域への合格者数の偏りを見せる場合もあった。特に南宋期に入るとその弊害が悪化し、福州・温州・明州といった一部の州では合格者数が異常に突出する[注 3]結果も生み出している[10]

宋代の科挙の合格者としては朱熹が科挙に19歳で合格しており、そのほか、蘇軾(1037-1101)が22歳、黄庭堅(1045-1105)が23歳で合格している[11]。また、宋代には新興の士大夫らが儒教を復興させ、唐代の『五経正義』に基づく国家公認の注釈書による教科書的な訓詁学に代わり、周敦頤から程頤を経て義理の追究に重きを置く朱子学陸王心学などの宋明理学が勃興した[12]
金・元

1127年、北宋では前年の解試を受けて省試・殿試が行われる予定になっていたが、が首都開封を占領したことで中止された(靖康の変)。旧宋領地域を平定するために派遣されていた斡離不を補佐していた劉彦宗の提言によって、1128年に科挙の続きを実施した(趙子砥『燕雲録』建炎2年戊申正月条)。遼では989年以来、漢民族などを対象に科挙が実施されており、劉彦宗自身も元は遼の進士であった。斡離不・劉彦宗は相次いで没するが、その後を継いだ粘没喝1129年1132年に科挙を実施し、その後熙宗によって1135年に科挙を実施されている。こうした措置は遼の主要領域を占領した直後の1123年にも実施されており、新たな征服地を統治するための人員を確保するとともに、漢民族知識人を引き留める効果があったと考えられている[13]。金では1138年に科挙が3年1貢の正式な制度として採用され、1149年にはそれまで実施されていなかった殿試も採用されるようになったが、金が公的な教育機関の整備に動き出したのは12世紀後期に入ってからで、また南宋のような士人に対する特権はほとんど認められず、科挙に合格しない限りは庶民と同等に扱われていた。世宗の即位後に従来の地方官吏から試験による中央登用を停止し、学校を整備して科挙登用を増やす政策を採用した。また女真族の軍事組織であった猛安・謀克の形骸化によって官途に就く道が閉ざされる形となった女真族を救済するために、女真族のみを対象とした女真進士科(のちに策論科)・女真経童科なども実施された。しかし、モンゴル侵攻を目の当たりにした宣宗は実務に長けた官吏の中央への登用を進めたため、官吏出身者と進士出身者の対立を引き起こすことになった[14]。なお、金の科挙受験者はもっとも多かったとされる13世紀初めでも多くて4万人程度と、40万人に達したとされる南宋に比べて大幅に少ない。しかし、金の領域に入った地域はもともと科挙が盛んではなかった(北宋時代には2万人前後の受験者しかいなかった)こと、金が人士への特権を認めなかったこと(反対に南宋のような特権目当ての受験者がいなかったこと)、金の人事制度が官吏からの中央への登用が比較的容易で科挙一辺倒ではなかったことなど、金と南宋の制度的な違いによるところが大きい[15]

では、1313年まで科挙が実施されなかった。これはモンゴル帝国の旧金領地域進出からみれば、100年あまり遅れて征服された旧南宋地域でも30年以上行われなかったことによる。従来、そうした状況をもって「士大夫の立身出世への道は絶たれた」「モンゴル支配下の漢民族知識人の不遇」とみなされてきたが、実際にはさまざまな人材登用ルートが存在しており、漢民族の知識人(人士・士大夫)もそうしたルートを介して登用されていた。


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