科挙
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しかし、モンゴル侵攻を目の当たりにした宣宗は実務に長けた官吏の中央への登用を進めたため、官吏出身者と進士出身者の対立を引き起こすことになった[14]。なお、金の科挙受験者はもっとも多かったとされる13世紀初めでも多くて4万人程度と、40万人に達したとされる南宋に比べて大幅に少ない。しかし、金の領域に入った地域はもともと科挙が盛んではなかった(北宋時代には2万人前後の受験者しかいなかった)こと、金が人士への特権を認めなかったこと(反対に南宋のような特権目当ての受験者がいなかったこと)、金の人事制度が官吏からの中央への登用が比較的容易で科挙一辺倒ではなかったことなど、金と南宋の制度的な違いによるところが大きい[15]

では、1313年まで科挙が実施されなかった。これはモンゴル帝国の旧金領地域進出からみれば、100年あまり遅れて征服された旧南宋地域でも30年以上行われなかったことによる。従来、そうした状況をもって「士大夫の立身出世への道は絶たれた」「モンゴル支配下の漢民族知識人の不遇」とみなされてきたが、実際にはさまざまな人材登用ルートが存在しており、漢民族の知識人(人士・士大夫)もそうしたルートを介して登用されていた。大きく分けると官吏・兵士・儒戸として出仕し、その功績によって中央に転じる者、縁故・猟官によってモンゴル人王侯などの有力者に推挙される者(王侯の幕僚として出仕したあとにその推挙を受ける例もある)、国子監・翰林院・司天監などの国家の教育機関で能力を認められて登用される者などがあり、科挙復活後もそうしたルートによって出仕する事例が多く存在した[16]。しかし、元代の科挙の1回の定員は100名で、しかも蒙古人・色目人・漢人(旧金領漢民族および女真族・契丹族・渤海族)・南人(旧南宋領漢民族)で4分の1ずつ分けられており、元代すべてを通じた合格者の総数は1000人あまりであった。ところが、科挙合格者は、成績によって従六品から従八品までの品階を与えられるなど、当時としては破格の待遇を受けた。しかも、科挙実施と同時に従来の官吏出身者の昇進の最高を従七品までに制限された(ただし、この規定が科挙復活以前の登用者にも適用されたことから問題視され、1323年に正四品に引き上げられた)。科挙の及第によって官僚を目指すことはメリットとデメリットの両方があり、必ずしも他のルートに比べて優位とは言えなかった。当時の知識人は数ある人材登用ルートから科挙を選ぶか、他のルートを選ぶかを選択していたと考えられている[17]
明・清1894年の会試の題目

明代に入り科挙は複雑化した。科挙の受験資格が基本的に国立学校の学生に限られたために、科挙を受ける前に、童試(どうし)と呼ばれる国立学校の学生になるための試験を受ける必要があった。一方で、試験内容も四書を八股文という決められた様式で解釈するという方法に改められた。試験科目が簡便なものになったことで貧困層からも官僚が生まれるようになった反面、形式重視に陥ってしまい真の秀才を得られなくなってしまうという弊害も発生した。詳細は「八股文」を参照

清代に入ってもこの制度は続いた。また、挙人覆試や会試覆試といった新たな試験制度が追加されたことで、さらに試験の回数が増えて複雑化した。このように科挙の試験形態が一貫して複雑化し続けた背景には、試験者の大幅な増加、豆本の持ち込みや替え玉受験などの不正行為の蔓延ということが挙げられる。しかし、このことは結果として科挙自体の複雑化から制度疲労を起こし、優秀な官僚を登用するという科挙の目的を果たせなくなるという事態を招いた。現に清代には順治帝治世下での丁酉科場案(中国語版)・康熙帝治世下の辛卯科場案・咸豊帝治下の戊午科場案(中国語版)と試験官に賄賂を贈って買収した大がかりな不正が起き、多数の関係者が死刑も含めた厳罰に処されている。

アヘン戦争以後は西洋列強が中国を蚕食するようになり、日清戦争後には本格的に近代化が叫ばれるようになっていった。そしてついに、清朝末期の光緒新政の一環として1902年(光緒28年)に八股文が廃止され、1905年(光緒31年)に科挙そのものも廃止された。

科挙が、中国社会においては一般常識そのものとされた儒学や文学に関して試験を行っている以上、その合格者は中国社会における常識を備えた人であると見なされており、その試験の正当性を疑う声は少数であった。逆に元朝初期に科挙が行われなかった最大の理由は、中国以外の地域に広大な領域を持っていた元朝にとって見れば、中国文化は征服先の一文化圏に過ぎないという相対的な見方をしていたからに他ならない[独自研究?]。

元朝と同じく征服王朝である清朝においても漢人科挙官僚を用いたのは旧明領の統治のみであり、それは同君連合である清朝が明の制度をそのまま旧明領に用いたためである。漢人科挙合格者で清朝の第一公用語で行政言語である満洲語満洲文字を学ぶことを許され、中央政治に参加できたのは状元榜眼のみであり、他の漢人科挙官僚は学ぶことを禁止されていた。

満洲人は基本的に武官八旗)であり、科挙を受けて合格すれば文官になれたが、漢人よりも課題が緩和されており優遇されていた。また皇帝から直接指名を受ければ科挙を受けなくても官僚になることができた。

清朝末期に中国が必要としていた西洋の技術・制度は、いずれも中国社会にはそれまで存在しなかったものばかりであり、そこでの常識だけでは決して理解できるものではなかった。中国が植民地化を避けるために近代化を欲するならば、直接は役に立たない古典の暗記と解釈に偏る科挙は廃止されねばならなかったのである。

時の清政府の留学促進政策および日本明治政府の積極的な招致が大きく関係している。戊戌の政変、義和団の乱、八国聯軍の侵略など、国内外においてダブルパンチを受けていた清政府は、その政権維持のため、新政措置を取った。そのうちの一つが日本の明治維新を手本にすることであり、積極的に学生たちの日本留学を推し進め、奨励規程の公布まで行った。特に、1905年の清政府による科挙制度の廃止も大きく影響し、多くの知識人が留学の道を選び、相次いで日本へと旅立った。
太平天国

太平天国も科挙を行った。特筆すべき点は、それまで受験資格のなかった女性に対して科挙を行ったことである。1851年に行われたこの科挙は、「惟女子与小人為難養也」をテーマとした論文を書かせるもので、200人あまりが受験し、傅善祥状元となった。しかし、その後まもなく太平天国は崩壊し、女性のための画期的な科挙はこの一度限りで終わった。
試験区分
文科挙清代科挙試験の一覧表
童試考場の内部貢院の号舍の模型

童試とは、科挙の受験資格である国立学校の学生になるための試験である。童試を受ける者は、その年齢にかかわりなく、一律に童生(どうせい)、あるいは儒童(じゅどう)と呼ばれた。

童試は3年に一回、旧暦2月に行われ、順に県試・府試・院試の3つの試験を受ける。県試は、各県の地方官によって行われる。県試に合格したものは、その県を管轄している府の府試を受ける。府試は、各府の地方官によって行われる。さらに府試に合格した者は、皇帝によって中央から派遣された学政による院試を受ける。この院試に受かった者は生員となり、晴れて秀才と呼ばれ、国立学校への入学資格を得て、士大夫の一部とみなされるようになる。

童試は唐代のころから童子科として存在しており、唐代は10歳以下、宋代は15歳以下が対象となっていたようであり、及第者には解試免除や授位などがなされた。なお、南宋の時代には女童子の求試が二度あり、及第者も誕生している。

科試・歳試

歳試とは、国立学校に入学した生員が受験する試験であり、3年に一度行われる定期学力試験である。成績優秀者の場合は地方官などに任命されることもあったが、成績不良の場合には停学もしくは生員たる資格を剥奪され退学処分を課せられる場合もあった。科試はこれに対して、科挙本試験の郷試を受けるための予備試験であり、受験者の数を絞ることが目的である。合格すると郷試の受験資格が与えられ、同時に生員から挙子と呼ばれるようになる。合格人数は次の郷試の会場である貢院 (こういん)の余裕に合わせて決定され、おおむね郷試合格者の100倍程度の生員が合格した。
郷試

童試が国立学校の学生という科挙の受験資格を得る為の試験であるのに対し、郷試は科挙の本試験であり、その第一の関門となる試験であり、その試験倍率はおおむね80から100倍程度で推移していた。

郷試は3年に1度、年、年、年、年ごとに実施されることが法令で定められていた。その期日もあらかじめ指定されており、具体的には、8月9日に第1試験、8月12日に第2試験が、8月13日に第3試験が実施される。第1回の試験では四書題3問と詩題1問の試験が課され、第2回の試験では五経題5問が課され、第3回の試験では策題という政治論文が課された。なお、この3年に一度の試験のほかに、恩科と呼ばれる臨時の試験が存在した。これは、宮中に大慶事(天子の即位など)が発生した際に特別に1回増加された科挙の試験のことである。

試験は各省の省都にある貢院で行われた。貢院とは科挙試験を行うための施設で、内部には「号舎」と呼ばれる、入り口に扉のない[注 4]インターネットカフェの個室程度の大きさの個室が無数に集まっており、それが長屋状に連続していた。そして、貢院の内部の大通りは「甬道」、小道は「号筒」と呼ばれた。

全3回の試験は、それぞれ3日間かけて行われ、各回ともに1日目は丸1日が受験生を入場させるために用いられ、2日目の早朝に問題が発表される。そして、3日目の朝までが回答時間として与えられ、3日目の夕方までに答案を提出することになっていた。この流れを3回繰り返し[注 5]、試験は終了となる[注 6]

受験生たちは、まず見張りの兵士によって所持品検査と、前もって作成された受験票に書かれた本人かどうかの本人確認を受ける。見張りの兵士が受験生のカンニングを見逃した場合には処罰の対象となり、逆にカンニングを見つけて摘発した兵士には報償金が与えられることになっていた[注 7]。そして、所持品検査を終えて入門を許された受験生は一人ずつ号舎に入れられ、試験が終了するまで3日間、号舎から出ることを禁止された[注 8]。貢院の門はいったん閉められると、試験が終了するまでいかなる理由があっても開かれることはなかった[注 9][注 10]。試験はほぼ徹夜で行われ、1畳ほどの狭い空間の中で回答しなければならない。しかも、部屋にカーテンはかけているとはいえ、外からは容赦なく夜風や雨が吹き込む。悪天候の場合などには身を挺して答案を守らなければならない。それゆえに、回答中に急病になったり精神に異常をきたしたりしてしまう受験生も多く、亡霊の祟りを見るなどの数多くの逸話が生まれた。

郷試の採点は、公正を期すためにさまざまな工夫がなされていた。まず、先述した3回試験制もその一つであり、合格者の決定においては3回の試験の平均点より決められた。また、採点の作業を行う際には、すべての答案の氏名欄に糊付けがされ、採点官が受験者の氏名を見ることができないように覆われた。さらに、答案の筆跡から受験者が特定されるのを防ぐため、すべての答案は一字一句に至るまで筆写係の手で正確に書き写され、採点官は受験番号のみを記載した答案の写しを見ながら採点を行った。そして、すべての採点が終了したあとに初めて答案の糊付けを外し、合格者の氏名が判明する仕組みになっていたのである。

郷試に合格した者は挙人と呼ばれるようになり、次の会試を受験する資格が与えられたほか、地方の官職に就くこともできた。また、定期的に再試験を受けて合格できなければ資格を取り消される挙子とは異なり、挙人の資格は生涯有効であった[注 11]

郷試の試験は先述のように非常に倍率も難易度も高いため、高齢者が試験に参加することも多かった。


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