結論は、明確でなければならない。例えば、「あなたは弱気な反面、強気すぎるところもあり…」といったように、どんな人(どんな対象)に対しても当てはまるような結論は望ましくないとされる[13]。結論の明確さに関連する概念としては、反証可能性がある。
一方で、現代の科学(特に工学)では「合わせこみ
」といわれる手法がある。これは、シミュレーションと過去の実験データを人為的によく一致させる”ためにいくつかのパラメータを制御する手法[48]である。別の側面から見れば、合わせこみは、どのような実験結果でも取り込めるほどパラメータが多い点で不明確であるが、短い時間で仕様を満足するモノを開発しなければいけない分野(工学、工業等)では非常に強力な手法/考え方である。無論、この手法が「基礎科学」にまで広がってくることについては苦言を呈するものもいる。例えば、リース・モーリン博士は、現在の最前線における物理学の理論が、「どのような実験結果でも取り込めるほどパラメータが多い」ことを指摘したうえで、反証可能性を軽視している傾向を、「物理学の迷走」と断じている[49]。実際、モーリン博士が指摘するように、最近の素粒子物理、量子情報、物性理論等は極めて数学に近い様相を呈しているため反証可能性の原則を逸脱していることはしばし指摘される[注釈 7]。また、特に、萌芽的な理論においては、実験がどんな結果を出してもそれを取り込めてしまうほどパラメータが多く、しかもそのパラメータの物理的な意味が不明確であることもしばしば指摘される。現在でも、このことを理由として権威ある雑誌への掲載が拒まれることがあるとされる[50]。但し、この傾向も最近では現実的な方向に、つまり反証可能性に偏重しない方向にシフトしつつある[50]。
また、結論はシンプルでなければならない。結論のシンプルさに関しては、以下の「オッカムの剃刀」という原則がある。
必要以上に多くの実体を仮定するべきでない。
現象を同程度うまく説明する仮説があるなら、より単純な方を選ぶべきである。
オッカムの剃刀は、「並立する幾つかの仮説の中から、ある一つの仮説を選択する方法」の一つとして現代の科学者において、理念的な面で受け入れられているが、あまり教条的に受け入れてしまってはいけない事柄である。その理由としては、
説明に不必要であることは、存在しないことを含意しない[注釈 8]。
何が説明に必要であるかは必ずしも明確ではない。
などの問題点がありえるからである。 科学は証拠となる事実(生データ/証拠物件)を要求する。科学者は何らかの「真偽判定」を行う場合に「どういった証拠が結論を支持し得るか」ということを考える[2]。このような思考は一般に、科学教育において優先的に身に付けさせるべきことと考えられている[2][8]。この際まず、仮説を支持する証拠と仮説の反証となる証拠を明確にする必要がある[2]。さらに、結論を立証、あるいは反証するために必要な実験を計画する必要がある。 一般に、「仮説の反証となる証拠の存在」は、必ずしも反証となる証拠を提示された理論の否定にはつながらない(後述の「反証可能性について」を参照)[2]が、特に実験家は、既存の理論の反証となりそうな実験を好んでターゲットにするという傾向があり、そのような反証例を基に、理論が洗練させられていく[51]。 証拠となる事実の取得(測定)の段階では、適切な測定方法の存在が重要となる。適切な測定方法の実現には、正しい測定原理と、それを実現する適切な装置構成、適切な精度評価が必要である[17][26]。測定原理の妥当性は、直接測定(例えば自分の身長を直接身長計で測る場合)の場合にはあまりその重要性が意識されないが、間接測定(例えば三角測量で山の高さを測る場合)には、その妥当性(本当にその方法で山の高さが測れるのか?)が極めて重要になる。また、「何を明らかにするために何をするのか」という研究者が意識すべき重要な事柄にも密接に関係する。 物理学や化学では、測定原理の妥当性の評価が比較的行いやすい対象が研究対象になるが、それでも最先端では、測定原理の妥当性や、装置構成の妥当性に対し議論が生じる場合もある。測定原理の妥当性や、装置構成の妥当性、精度の評価はそれぞれの学問における最も本質的な議題の一つであり、それぞれの学問分野で研究されることである。 測定原理の妥当性や、装置構成の妥当性については、主に大学の学生実験で重点的に指導される[26]。逆にいえば、測定原理の妥当性と装置構成の妥当性について学ぶことが学生実験の一つの重要な意義である[26]。典型的な例としては、ボルタ振子
証拠
測定原理、装置構成、精度の妥当性の評価を行うことを目的とした論文以外の論文では、博士論文等のような大著の論文を除き、装置構成の妥当性や装置構成の詳細、測定原理の妥当性については、軽く触れるにとどめるのが普通である。このようになった原因の一つには、知的財産権に関する戦略や、二重投稿と解釈されることへの懸念などがある。論文に実験方法詳しく書いた場合で、既に実験方法の妥当性を示すために提出した論文(理論や装置に関する論文)や、特許が存在した場合には、二重投稿と処断される可能性がある。また、論文に実験装置の構成について詳しく書きすぎると、実験の成功に関して必須でない部分に関しても装置構成に関する新規性が喪失されることになる場合があり、後に特許として権利化する場合に支障となる可能性が出てくる。
また、最近では実験ツールのキット化が進んでおり、間接測定であっても、妥当性、測定精度等の基礎評価は、実験装置、実験キットのメーカーが保証してくれていて、実験者が意識しなくても済むようになってきつつあるため、測定原理や測定精度について、意識の低い研究者がいることも指摘される[52]。
証拠となる事実の整理(解析)、あるいは実証実験のように示すべき命題が明確になり、結論の有意性の問題に逢着段階においては「データの解釈方法」「データの記録または報告」「データの重みづけ」等、適切なデータの取得、適切なデータの処理に関する問題が重要となる[2]。「適切」とは、ここでは、「どのような手順でデータを取得、解析すれば偏りが少ないと認められるか」を指す[2]。この問題は概して非常に難しく、有意性の問題といわれる。有意性の判断は先述のように分野によってどこまで容認するかに温度差があるが、この判定基準については統計学特に実験計画法[注釈 9]の分野の研究者が研究している事柄である。有意性の判定に関して、実験計画法では以下の3条件を原則としている(実験計画法の項目を参照のこと)。
局所管理化:影響を調べる要因以外のすべての要因を可能な限り一定にする。
反復:実験ごとの偶然のバラツキ(誤差)の影響を除くために同条件で反復する。
無作為化(ランダム化):以上でも制御できない可能性のある要因の影響を除き、偏りを小さくするために条件を無作為化する。
また、「科学的であること」の要件として必須であるとまでは言えないものの「どのようなデータの収得順序、収得方法、統計処理方法でデータの本性をえぐりだすことができるのか」という問題も重要である。この問題の系統だった研究はデータマイニングの分野で研究されている。この問題に対してカリフォルニア大学サンタバーバラ校教授 中村修二が、「データに文脈性を持たせることの重要性」を説いている[53]。データに文脈性を持たせ、一見意味のない雑情報に見えるものの中から意味のある情報を取り出すためには、セレンディピティーや磨かれたセンス、場合によっては運が要求される問題でもある。センスを磨くためには実験ノートの有機的な活用など、実験をよく振り返ることに加え、関連するよい論文に目を通し発見の過程を分析する必要がある。
推論過程「IMRAD」も参照
結論と、実験事実の間には何らかのギャップがあることが通常であり、その間を結ぶ考察が必要となる。すなわち、証拠と結論を結ぶ適切な推論過程が考察である。
推論過程を、一つの観点から分類すると、直接証明法と間接証明法に分類できる。
直接証明法:証明したい命題を直接的に立証する
間接証明法:証明したい命題と等価な命題(例えば対偶や背理法)を示す。
推論過程を、別の観点から分類すると、「演繹」と「演繹でない推論」に分類される([13]PP88-92)。
演繹とは、一般的原理として認知された法則、あるいはもっともらしいと信じられているものに基づいて、いくつかの仮定をおき、具体的なモデルを考え、それに基づいて現象を予測する手法である。
演繹でない推論(非演繹的な推論には、帰納、投射、類比、アブダクションがある。
帰納は、個別の例から一般性を導くもの。
投射はこれまでの個別例ではAの性質だったから、次のケースもAだろうという推論。
類比は、二つの事柄が似ていることから、それ以外の点でも似ているだろうという推論。
アブダクションは、たとえば今まで分かっていたことだけからではすぐに説明ができない場合に、説明を可能にするような新しい仮説を置いて、その仮説は正しいだろうと考えるような推論のこと。
ここで、アブダクションについては、あまり聞きなれない言葉であるため簡単に補足しておく。これの基本は「チャールズ・パースの仮説形成法」が基本になるとされている[5][54][55]。