モデル化とは、「牛を球と仮定する」[64][65]という標語が教えるように、起こっている現象から本質と無関係と思われる部分をそぎ落としたものを作り、そこになんらかの法則をあてはめ、現象を再構築することである[64](詳細は数理モデル,モデル (自然科学)等を参照のこと。)
モデルの提示方法には、例えば以下のようなものがある
1つのモデルを挙げ、そのモデルが実験をよく説明していることを示す。
いくつかの対等なモデルをいくつか挙げ、それをいくつかの論点から比較し最もよく実験を説明しているものを選ぶ。
複数の論点を挙げ、それぞれの論点についてモデルを1つ / 複数挙げ、妥当性を示す / 妥当なものを選択する。
モデルの構築方法の典型的な一例を以下に示す。
直観的に考え、もっともらしい「仮のモデル」を、議論の叩き台にするために提案する。
現実と合致するようにモデル、式、計算コードを調整する(調整されてできたモデルあるいはモデルの調整法をとりあえずのメカニズムと考える)。
そのモデルが、(少なくとも考えた中では)最もよく物事を説明していることを、統計学的な見地から評価する。
モデルを調整するのに用いた実験パラメータの物理学的な意味を次元解析等を参考に解釈する。特に萌芽的な研究においては、「ある程度幅をもった実験結果でも取り込めるような体系を作り、実験でパラメータを抜き出し、外挿によって近縁の系に対して予測を立てる」という手法がよく採られる。
特に萌芽的な研究においては、「ある程度幅をもった実験結果でも取り込めるような体系を作り、実験でパラメータ[要曖昧さ回避]を抜き出し、外挿によって近縁の系に対して予測を立てる(所謂「合わせこみ)」という手法がよくとられる。
このような「合わせこみ」をベースとした現象論的・現代的なモデル形成手法は、特に「物ができること」を重視する応用系の分野において顕著な成果を挙げており、現在のデータからより優れた物を作る指針として活用されている。素粒子論などの基礎的な分野においても、このような手法の活用に苦言を呈する者はいるが、少なくとも論文を書く上ではよく用いられている指針である。総じて言えば、基礎研究・応用研究の両方において強力な手法である。
特に基礎分野の研究に対する、現代的なモデル化手法の積極的な導入に対する苦言の根拠としては、現代的なモデル化は、モデルを調整するための変数があまりにも増えてしまうと、そもそも計算が困難になり、直観による見通しが利かなくなるという弱点があることがよく言われる[49]。特に、素粒子理論などでは、現実を説明するためにどんどん新しい素粒子が仮定され、話がどんどん複雑になっていくということが問題視されている[49]。単に「話がどんどん複雑になっていく」というだけでは「悪い」とは言えないが、一般に結論はシンプルであるほうがよいと考えられている[49]。無論、明確な指導原理が得られないままパラメータが泥縄的に増えていく状況が生じた場合には、オッカムの剃刀という理念を再度思い起こす必要がある。 科学的な方法を実行する上では、調べるべき対象への知識、それ以前の基礎的な知識などが要求されるが、このような知識面以外に、「対象に影響を与えるドミナントな支配法則 をまず考慮して概略の傾向を数値的に掴むこと」「実験ノートをきちんとつけられること」、「一定の計算力、論理的な思考力」などの知識面とは異なる素養、具体的にはスキルや評価項目が存在すると考えられている[8][66]。 研究者レベルの人間に必要な素養全てを書きだすことは難しいが、教育レベルでは、ある程度明確化されてきている。一般に、教育レベルでは、以下の素養を身に付けることが必要であると考えられている[8]。科学的方法を実行するための素養のうち、推論能力に関する評価手法としては、例えば、科学的推論能力テスト
実行するための素養
科学での考え方と証拠に対する理解
いかに科学的な考え方が発表され評価され広まっていくか(例えば、出版物や他の科学者のレビューによって)。
経験的な証拠を異なって解釈することからいかに科学的な論争が巻き起こるか(例えば、ダーウィンの進化論)。
科学的な仕事が、それがなされる状況から影響を受ける様(例えば、社会的、歴史的、倫理的、精神的)と、そうした状況が考え方を受け入れるかいなかにいかに影響を与えるか。
産業的、社会的、及び環境的な問題に取り組む際の科学の力と限界について考察すること。それは、科学が答えられることと答えられないこと、科学的な知識の不確かさ及び関連する審美的な諸問題も含む。
調査能力
「計画すること」
科学的な知識と理解を用いて様々な考えを調査できる形式に変換し、適切な方略を計画すること。
直接経験に基づく証拠を用いるか、二次的な情報源からの証拠を用いるかを決定すること。