秋田県
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理由は、当地方は古来「秋田」と呼ばれたものであり、「久保田」は300年来の称とはいえ一小村の俗称に過ぎないことから[12]。
1月13日(3月3日) - 久保田藩を秋田藩と改名[12]。
4月 - 岩崎藩が岩崎藩陣屋を建立。
明治初期の由利郡
明治2年(1869年)
6月22日(7月30日) - 本荘藩主六郷政鑑、亀田藩主岩城隆彰、矢島藩主生駒親敬が版籍奉還し、各藩知事に就任する。
7月26日(9月2日) - 酒田県が発足し、由利郡の旗本領および亀田藩の減封分を管轄。
明治3年(1870年)9月28日(10月17日) - 酒田県が山形県に移転改称する。
明治初期の鹿角郡
明治元年12月7日(1869年1月19日) - 鹿角郡が盛岡藩から没収され、弘前藩取締地になる。
明治2年(1869年)
2月8日(3月20日) - 鹿角郡が黒羽藩取締地に変更され、北奥県を称する。
8月7日(9月12日) - 北奥県の区域をもって九戸県を設置。
9月13日(10月17日) - 九戸県が八戸県に改称。
9月19日(10月23日) - 八戸県が八戸藩との混同を避けるため三戸県に改称。
11月28日(12月30日) - 三戸県が斗南藩と江刺県に分割され、鹿角郡は江刺県管轄となる。
明治(廃藩置県以後)
明治4年(1871年)
7月14日(8月29日) - 廃藩置県に伴い、秋田県・本荘県・岩崎県・亀田県・矢島県を設置(これを記念して8月29日は県の記念日となっている)。
11月2日(12月13日) - 第1次府県統合に伴い、上記5県と江刺県のうち鹿角郡全域、および由利郡の山形県管轄分を併せて秋田県(第2次)を設置。県令・権令の発令はなく、江刺県大参事の村上光雄が秋田県参事に任じられる[13]。
11月14日(12月21日) - 久保田藩の飛び地からそのまま秋田県管下となっていた、下野国河内郡の7ヶ村が宇都宮県へ、同都賀郡の4ヶ村が栃木県へ移管される。これにより、十和田湖上の境界未定箇所を除き現在の県域が確定(十和田湖上の確定は2008年)。
12月26日(1872年2月4日) - 初代秋田県権令に侍従の島義勇が就任。当面は東京築地新富町の秋田県支庁にて勤務[14]。
明治5年(1872年)
2月26日(4月3日) - 島権令、秋田長野町の旧佐竹北家邸に入る[10]。
3月13日(4月20日) - 久保田城本丸に秋田県庁を開庁。
7月20日(8月23日) - 第2代秋田県令に宮内大丞の杉孫七郎が任命される[15][16]。
10月12日(11月12日) - 県庁を秋田東根小屋町の本部学校(旧明徳館)へ移す[15][17]。
1873年(明治6年)
2月18日 - 秋田東根小屋町に秋田県初の公立小学校(変則小学校、後の日新学校)が設立される[18]。
5月? - 第3代秋田県権令に木更津県参事の国司仙吉が任命される[19]。
8月24日 - 県庁聴訟課より出火し庁舎全焼。下中城の渋江邸に県庁を移す[20][21]。
9月10日 - 日新学校内に洋学科を増設、洋学校(秋田県立秋田高等学校の前身)として開校。
10月1日 - 秋田上中城町に教員養成のための伝習学校(秋田大学教育文化学部の前身)を設立[18]。
11月27日 - 秋田長野町の空き官舎(旧佐竹北家邸、初代島権令の離任後は使われていなかった)を改築して県庁とする[17][20]。
12月 - 秋田五丁目横町に聴訟課監視掛付属屯所を設立し「巡邏逮捕之事務取扱」を発令。秋田中央警察署の起源とされる[22]。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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