秋吉久美子
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いわき市で予備校通いをしたが、浪人も面白くなく、予備校も休みがちになってブラブラしていたとき、隣町で観た街頭アングラ演劇[3]「はみだし劇場」に感銘を受け[3]、同劇場の劇作家内田栄一の妻・内田ゆきに身柄をあずけ上京した[7][9]。内田ゆきは秋吉のマネージャーになった[7]。最初の仕事は赤福もちのCMだった[7]。同年、斎藤耕一監督の『花心中』に一シーンだけ顔を出したのち、芸名を「秋吉久美子」として松本俊夫監督の『十六歳の戦争』に主演して本格的に映画デビューした[9]。しかしこの作品は難解だという理由で1976年まで公開されなかった[7]1974年藤田敏八監督の青春映画『赤ちょうちん』で、奇妙な魅力をたたえた女優などと評価されヒットし、名が浸透する[7]。続けて秋吉主演で『』、『バージンブルース』(日活)と立て続けに製作され、人気が急上昇した[7]。「クミコ、君を乗せるのだから…」とナレーションが入る日産チェリーF-IICMでは可愛らしさで世の男をノックアウトさせ[3]、愛くるしい表情、70年代を表現する繊細な存在感、今までの日本の青春映画を脱却した大胆な脱ぎっぷりで、桃井かおりとともに[3]、当時のシラケ世代の寵児となる[2][3]

1979年、青い三角定規のメンバーで作曲家の岩久茂と結婚した。男児を産みおよそ2年ほど芸能活動を休止したが、後に離婚した[12]。結婚を経てかつてのフーテン、ツッパリ、シラケ、ナマイキイメージもとれて、美しさに磨きがかかり[3]、80年代の新しい母親像なども好演し[3]、桃井と違い[3]、茶目っ気もあって明るくスタッフ受けもよく[3]、また裸も綺麗で脱げることから[3]、いい役にキャスティングされるようになった[3]。復帰後、ソープ嬢を演じた『の・ようなもの[2](1981年)、冷めているが可愛げのあるヒロインに扮した『冒険者カミカゼ -ADVENTURER KAMIKAZE-』 (1981年)を始め、『さらば愛しき大地』 (1982年)、『夜汽車』 (1987年)、『異人たちとの夏』 (1988年)、『誘惑者』 (1989年)、『レッスン LESSON』 (1994年)、『深い河』 (1995年)などがある。2004年、『透光の樹』では、深遠な性愛シーンを披露した。
近年

近年はバラエティにもゲスト出演している[2]。TBS系人気番組『クイズダービー』にもゲスト解答者としても数多く出演した。しかも1988年10月の特番で、当時産休中だった竹下景子に代わり、4枠に座っていた。ちなみに成績は12勝20敗、3割7分5厘と好成績を修めていた[13]

作詞家としても活動しており、DOGGY BAG松尾光次にも楽曲を提供している。

2004年12月に26歳年下の日系アメリカ人と結婚したが、翌年夏に離婚した。その後、同じ男性と2006年2月に復縁(再婚)するが、2014年に再び離婚している[2][14]

2006年8月12日、第38回NHK思い出のメロディー』で司会に初挑戦した。会見で「あのころは"痛がる時代"だったと思う」と独自の理論を披露した。

2007年1月からTBSでフリーアナウンサー中井美穂と共に一視聴者と同じ視点に立った素直な切り口で『世界陸上大阪大会 秋吉&中井 We Love アスリート』の司会を務めた。なお、番組内で出演した各アスリートの写真を秋吉自らカメラマンとなって撮影し、ポスターを制作するコーナーがあった。この時の写真が好評で、世界陸上の会場にポスターの展示場が開設された。

最終学歴は高卒であったが、個別の入学資格審査を経て、2007年9月より早稲田大学大学院公共経営研究科専門職学位課程公共経営学専攻に入学し[15]。2009年9月、同研究科を10人中の総代として修了、公共経営修士を取得した。世界遺産登録5周年記念事業「熊野古道国際交流シンポジウム尾鷲2009」にパネリストとして参加した。2013年には出身地である福島の風評被害払拭のため消費者庁「東北未来がんばっぺ大使」に就任のほか、「三重県文化審議会委員」も務める。2013年「わたしの人生?我が命のタンゴ」でモナコ国際映画祭主演女優賞を受賞した。

2015年1月、35歳の長男が事故死した[16][17]
人物

趣味は旅行、特技は英会話。

肉が甘いからという理由ですき焼きが嫌い。

シラケが流行した1970年代の時代性を象徴し、そのユニークな言動が話題を呼んだ[7]。当時はカワイコちゃんタレント全盛の時代でもあり、秋吉の言動は余計に目立つこととなる[9]。芸能界にデビューしたての若い少女にありがちな発言を求めた記者に対抗して「面白くもないのにカメラの前で笑ったり、俳優ってバカみたい」などと発言し「シラケ女優」のレッテルを貼られた[9][18]。また『妹』の公開前、宣伝のために出演した番組で共演者が礼儀正しくインタビューに答えていたのに対して、頬杖をついて別の方向を見ていた。なお、当時の様々なラディカルな言動については後に「不器用だったのかな」と振り返った発言もある。

2016年、写真集「KUMIKO AKIYOSHI 1973 NUDE」小学館の発売記念サイン会で、デビュー当時ヌード撮影だと事前に知らせず黙って現場へ連れて行った当時のマネジャーについては「お墓の下にいるけど、まだ許してない」と語っていた[19][20]

2020年から、雑誌「ココア共和国」(発行元:あきは詩書工房一般財団法人(仙台市))に掲載されたアマチュアのの中から、年間2本以上投稿した人を対象に選考の上「秋吉久美子賞」を贈呈している。審査員は秋吉と斎藤貢が務める[21]
受賞歴

第12回ゴールデンアロー賞映画新人賞(昭和49年)『赤ちょうちん』『妹』『バージンブルース』

プロデューサー協会新人賞(昭和49年)『バージンブルース』

第19回ブルーリボン賞主演女優賞(昭和51年)『さらば夏の光よ』『あにいもうと』

第1回報知映画賞主演女優賞(昭和51年)『あにいもうと』

第31回毎日映画コンクール女優演技賞(昭和51年)『あにいもうと』

アジア映画賞主演女優賞(昭和51年)『挽歌』

芸術選奨新人賞放送部門(昭和52年)『下町のおんな 風子』

日刊スポーツ映画大賞助演女優賞(昭和63年)『男はつらいよ 寅次郎物語』

第62回キネマ旬報賞助演女優賞(平成元年)『異人たちとの夏』

第43回毎日映画コンクール女優助演賞(平成元年)『異人たちとの夏』


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