秋元康
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作詞家の活動・おニャン子クラブのブレーンとしての活動

放送作家業に物足りなさを感じ、また放送作家業の将来性に不安を感じていたところ、亀渕からニッポン放送の子会社だったパシフィック音楽出版(後のフジパシフィックミュージック)の朝妻一郎を紹介され、作詞を手掛けるようになる[13]。これらの経緯から、作詞家としてはフジパシフィックと契約している[18]

1981年、フジテレビ系で放送されたアニメ『とんでも戦士ムテキング』の挿入歌「タコローダンシング」[注釈 5]で初めて作詞家としてクレジットされる[19]

アーティストに初めて提供した作品は、Alfeeのシングルレコード「通り雨」(1981年10月21日発売)のB面「言葉にしたくない天気」である[16]。これ以降、作詞家としても活動を開始した。1982年の稲垣潤一ドラマティック・レイン」、1983年の長渕剛GOOD-BYE青春」で作詞家としての知名度を獲得した[13]

放送作家としてテレビ番組『ザ・ベストテン』、『オールナイトフジ』、『夕やけニャンニャン』の構成を担当して高視聴率を挙げる一方、さまざまなジャンルの楽曲の作詞を手掛ける[20]。1985年の小泉今日子なんてったってアイドル[21]、同年のとんねるず雨の西麻布」などの楽曲をヒットさせる[22]

1985年からは女性アイドルグループ・おニャン子クラブの楽曲を手掛け、全楽曲の作詞を担当した。後に総合プロデューサーとして関わるAKB48とは異なり、おニャン子クラブは先述の『夕やけニャンニャン』が最初にありきで、秋元自身は、おニャン子クラブについては共同作業であるとし、自分は仕掛け人ではないと説明している[23]。また、国生さゆりは「構成作家の秋元さんはスタッフの一員、いい意味で他のスタッフと同列だった」と述べている[24]。1986年のオリコンウィークリーチャート52週のうち36週でおニャン子クラブ関係の楽曲が1位を獲得[19]。1987年には長者番付のその他の部門で16位となり、納税額は1億61万円であった[25]

1988年、おニャン子クラブのメンバーだった高井麻巳子と結婚した[26]。結婚と同時に渡米し、ニューヨークに1年半ほど滞在[20]。帰国後、美空ひばりの遺作となった「川の流れのように」の作詞を担当した[20]。これにより作詞家としての地位を不動のものにした[22]
AKB48グループ・坂道シリーズなどのプロデュース「AKB48グループ」および「坂道シリーズ」も参照

2005年、KRKプロデュース代表の窪田康志office48代表の芝幸太郎電通らと協力し『秋葉原48プロジェクト』を発足した。東京・秋葉原で女性アイドルグループAKB48を立ち上げ、総合プロデューサーに就任した[27][注釈 6]。2006年、AKS[注釈 7]を、東京都港区白金台(KRKプロデュース社内)に設立し、AKB48の運営・管理業務を行う。

2010年初頭、インタビューで秋元は「将来は国内7大都市に劇場を建て、選抜メンバーでJAPAN48を作りたい」と語り、実際に国内外にAKB48の姉妹グループを立ち上げた[注釈 8]

2011年に乃木坂46を立ち上げ、2015年からは坂道シリーズと称して欅坂46(現・櫻坂46)、けやき坂46(現・日向坂46)を立ち上げた[29]

2013年、ジャーナリストの田原総一朗との対談の中で、将来的にはAKB48のプロデュース業から退くことを示唆している[注釈 9]

2023年、乃木坂46の公式ライバルとして僕が見たかった青空をプロデュースすると発表した[31]。8月30日、シングル『青空について考える』でCDデビュー[32]
人物

身長は166.7 cm[注釈 10]。愛称は、やすす[34]、秋元先生[35]。2001年3月、第1子である長女をもうけた[36]


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