私年号
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具体的には、禁闕の変後に近畿南部の南朝遺臣(後南朝)が使用したという「天靖」「明応」、永享の乱で敗死した鎌倉公方足利持氏の子・成氏を支持する人々が使用した「享正」「延徳」などがその例である。ところが、15世紀末以降の戦国期に発生した私年号は、依然として戦国大名の抗争の中にありながら、従来の私年号とは性格を大きく異にしていることが指摘できる。すなわち、「福徳」「弥勒」「宝寿」「命禄」などは、弥勒や福神の信仰に頼って天災・飢饉などの災厄から逃れようとする願望の所産であって、単なる政治的な不満と反抗を理由に公年号の使用を拒否していた訳ではない。しかも、これらの私年号の多くは甲斐国山梨県)から発生し、寺社巡礼の流行に乗じて中部地方東北地方に伝播したとみられ、現在東国の広い地域に残る板碑過去帳・巡礼札などの中にその実例を確認し得る。こうした事態の背景には、幕府と鎌倉公方との対立による改元伝達ルートの乱れや途絶があったに相違なく、その意味において、広範囲に通用した私年号は中世後期東国の歴史的所産と呼べるものであろう。
近世以後

戦国期の戦乱の後、中央集権体制の確立を目指す織豊政権下において、私年号は次第に姿を消していく。国家統一を成し遂げた江戸幕府はキリスト教に対して弾圧政策を執ったため、これに抵抗する地方のキリシタンの間で「大道(大筒)」の年号が用いられたらしいが、以後は目ぼしい私年号の発生を見ていない。

幕末から明治時代初期にかけては、天皇の崩御や戊辰戦争が重なり、混乱の中で多くの私年号が現れた[1]奥羽越列藩同盟軍の間で採択されたという「延寿」「大政」がある。また、近代においても自由民権運動の中で秩父困民党が使用したという「自由自治」、日露戦争に勝利したことを祝して一般大衆にも使用された「征露」などが私年号の例として挙げられる。

第二次世界大戦後は、終戦直後に宗教団体・璽宇の教祖・璽光尊が天皇になったと宣言して教団国家を作り、独自の元号を定めた事がある。また出版社・晩聲社が自社の出版物に「核時代」という年号を付している。現代においても「オリンピック元年」などのように、マスコミや企業をはじめ個人レベルに至るまで、深い意味を持たせることなく一般的に使用されている。
日本の私年号一覧
古代年号

私年号異説元年相当公年号(西暦)継続年数実例・備考
列滴烈擲
孝霊天皇元年(紀元前260年)5-
経明-垂仁天皇11年(紀元前19年)4以上尾張国風土記
璽至応神天皇元年(270年)1-
(善紀)嘉紀武烈天皇元年(498年)4「善記」の異伝か。
継体-継体天皇11年(517年)5-
善記善紀
善化
善喜継体天皇16年(522年)4『興福寺略年代記』、『神祇霊応記』、『濫觴抄』など
正和正治
正知継体天皇20年(526年)5-
教到教倒
発倒
殷到
教知継体天皇25年(531年)6『体源抄』、『続教訓抄』、『彦山流記』など
僧聴僧徳宣化天皇元年(535年)4『金峰山秘密伝』など
明要明安
同要
同安欽明天皇2年(540年)11『宗像大菩薩御縁起』など
貴楽-欽明天皇13年(551年)2『善光寺縁起』など
法清法靖
結清欽明天皇15年(553年)4『伊佐須美神社年代記』
兄弟兄弟和欽明天皇19年(557年)1-
蔵知蔵和欽明天皇20年(558年)5『伊佐須美神社年代記』
師安-欽明天皇25年(563年)1『妙法寺年録』、『善光寺縁起』、『峰相記』など
知僧和僧欽明天皇26年(564年)5『妙法寺年録』、『善光寺縁起』
金光-欽明天皇31年(569年)6覚一本『平家物語』、宝寿院本『聖徳太子絵伝』など
賢称賢接
賢棲
賢輔
賢伝敏達天皇5年(576年)5-
鏡常鏡照敏達天皇10年(581年)4『妙法寺年録』、『興福寺略年代記』、『日本略記』など
勝照照勝
勝烈敏達天皇14年(585年)『妙法寺年録』、『金剛寺之略記』、羽黒山本社棟札など


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