私刑
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中世以前のヨーロッパでは、フェーデアハトのような私刑原理があり、合法であった。しかし1400年代になり公権力による刑罰権の回収が行われると私刑は違法になった。ドイツでは1495年マクシミリアン1世による「ラント平和令」の制定によって一切の私刑が禁止された。
アメリカ合衆国アメリカ合衆国南部にてリンチの犠牲となったアメリカ黒人(1889年)

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リンチ絵葉書(1915年7月)
アメリカ合衆国テキサス州にてリンチの犠牲となったアフリカ系アメリカ人(1920年)。

アメリカ合衆国西部開拓時代フロンティアの地などでの犯罪者に対し、法の裁きを経ず民衆による私的制裁が加えられており、この行為を、アメリカ独立戦争時、暴力的行為を働くことで知られた チャールズ・リンチ(英語版)大佐、ウィリアム・リンチ(英語版)治安判事に因み、「リンチ」と呼称するようになった[7][1]。チャールズ・リンチが治安判事の権限をこえてロイヤリスト(王党派)を処罰したことがリンチ lynching の語源という[8]

南北戦争以前において、私刑は治安や秩序維持のために行われるものとされ、素行の悪い奴隷や共同体の規範を逸脱するものに対し、民衆の自警団によって行われるものであった。その後、白人至上主義KKKが結成され、アフリカ系アメリカ人を対象に私刑を率先して行う役割を持ち、リンチの持つ意味が秩序統制から異人種憎悪の表現へと変化していった[7][注 1]

レオ・フランク事件(1884)

1891年3月14日のリンチ事件

ジェシー・ワシントンリンチ事件 - 1916年5月にアメリカ合衆国テキサス州で発生したリンチ事件。

ハワイ

1889年、ハワイ島ホノカアの官約移民(政府斡旋移民)だった後藤濶が白人商店主らによってリンチ殺害され、電柱に死体を吊るされた[9]。後藤は官約移民として初めて商店を開き、得意な英語で日本人移民の相談役となるなど、有力者だった[9]
イギリス

1860年イーストボーンの悲劇では教師が生徒を体罰で殺害した。教師は裁判で無罪を主張したが、有罪となった。

第一次世界大戦終結後の1919年リヴァプールで、白人と黒人の船員の間で一連の人種暴動が発生した。 パブで黒人船員がタバコを与えることを拒否したために白人船員2人に刺されると、翌日黒人船員の友人らが報復した。その際に警官が負傷したため、警察が黒人地区の下宿を襲撃し、双方に死傷者が出た。 白人暴徒が、黒人船員チャールズ・ウートンをマージー川で溺死させた[10]

1988年ベルファストで、2人の私服イギリス兵がIRA暫定派の葬列の方向へ車を走らせていたところ、特殊空挺部隊員と間違われ、群衆に殺害された[11]
ロシア・ソ連

ロシア革命で、社会の混乱が極度に進むなか、強盗など犯罪が多発し、同時に、帝政時代の司法制度が崩壊したことで、私刑(サモスード)が横行した[12]。泥棒がその場で群衆に殴り殺されたり、また、「人民裁判が最も公正で、最も迅速」であるとして、その場で満場一致で死刑判決を下し、殺害する事件も多発した[12]。また、ボリシェヴィキによる赤色テロルでも非常事態と称して、厳格な法的手続きのない方法で制裁や殺害が多数行われた。
トルコ

2016年トルコクーデター未遂事件の余波で、トルコ軍兵士に対するリンチが発生した[13]
メキシコ

革命後のメキシコでは、リンチは超法規的暴力の手段として頻繁に起こっている[14]。 宗教的な動機が関係していることもある[15]

1968年、プエブラ州のサン・ミゲル・カノア村で、プエブラ自治大学の職員5人が共産主義者だとみなされて、村民からリンチを受けた。 リンチは司祭の扇動によるもので、職員2名と滞在先の家主が殺され、職員3名は指を切断されるなどの重傷を負った[16]。 扇動者は起訴されず、逮捕された数名は証拠不十分で釈放された[54]。

2004年11月23日、トラワク・リンチ事件では、麻薬関連犯罪を捜査していた私服捜査官3人が、小学校の外で写真を撮っているのを見て、住民が、子供を誘拐する犯罪者だと誤認し、怒った300人の群衆によってリンチを受け、生きたまま焼かれた[17][18][19]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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