福祉国家論
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

ベヴァリッジの目指すものは「完全な平等」ではなく、あくまでも最低限度(ナショナル・ミニマム)の保証であった(#自由主義的福祉レジーム[8]
欧州社会憲章

欧州評議会は国家と国際関係安定を目的に創設されたが、世界人権宣言の求める法の支配と基本的人権のさらなる普及と人間の安全保障の観点から、欧州人権条約を補完する欧州社会憲章を1961年に採択した。2012年時点での加盟国は北欧フランスイタリアトルコも含めた27ヵ国にとどまるが、選択議定書を含む障害者権利条約の欧州連合規模の批准などに影響を与えている。
福祉国家の展開
福祉国家の成立

欧米諸国では、16世紀以来の救貧法を脱して、20世紀の初頭ごろから、国民の権利としての所得保障や社会サービスが給付されるようになった。制度的な拡大としては、19世紀末に労災保険制度、1930年代から1940年代に老齢年金制度、さらに失業給付制度や家族手当、という具合に段階的に整備されている。また、対象者の範囲については、イギリスやスウェーデンなどではナショナル・ミニマムに基づく均一給付、大陸ヨーロッパ諸国では職域ごとの社会保険制度、アメリカでは黒人労働者の排除、というように多様な展開が見られた[9]
福祉国家の発展戦後の福祉国家の分岐

第二次世界大戦後の高度経済成長のなかで、先進各国は社会保障の充実を図った。そのなかで、福祉政策の対象範囲を困窮層に限定するか中間層まで広げるか、また、福祉政策を雇用政策に連関させるか否か、という分岐が見られた(右図)[10]

イギリスの福祉では第二次世界大戦直後に社会民主主義的な方向の政策が展開され、ベヴァリッジ報告書では社会保障制度の構想が提言された。総選挙で労働党が大勝したことでこの構想は実現されることになり、国民保健サービスや国民保険(英語版)といった制度が整備され、ゆりかごから墓場までと呼ばれることとなった。

日本を例に挙げると、以下のような福祉政策の拡充が実施された[11]

児童手当制度の開始(1972年)

老人医療費の無料化(1973年)

健康保険被扶養者の給付率を50%から70%に引き上げ(1973年)

厚生年金保険の給付額を2.5倍に引き上げて「五万円年金」(定年前給与の約60%)を実現すると同時に、物価スライド制を導入(1973年)

生活保護の扶助基準の引き上げ(1973年)

雇用保険四事業の開始(1975年)

福祉国家の危機

1973年と1979年のオイルショックを引き金に高度成長が終焉すると、それまでの福祉政策の拡充の原資となっていた税収が落ち込み、1981年に経済協力開発機構(OECD)が『福祉国家の危機』と題する報告書を公開[12]するなど、その行き詰まりが喧伝されるようになった。また、グローバル化の進展による資本を海外への逃避から繋ぎ止めるため、先進各国は、社会保障を最小限に切り詰める「最底辺への競争」に追い立てられるとされた[13]。また、脱工業化は、均質的なブルーカラー労働者を中心とした製造業から、多種多様なホワイトカラーを中心とするサービス産業へ産業構造が推移することによって、労働運動の弱体化を招き、福祉政策の後退に繋がるとされた[14]

1979年5月、イギリスではマーガレット・サッチャー首相となり、ケインズ型福祉国家の抜本的改革に着手した(サッチャリズム[15])。アメリカでは1980年に大統領となったロナルド・レーガンは、「ケインズ主義福祉国家」の解体に着手した(レーガノミクス[15])。「小さな政府」をスローガンに、規制緩和の徹底、減税、予算削減、労働組合への攻撃など、新自由主義的な政策を大規模に行っていった[15]。日本では小泉純一郎政権が、米英に20年遅れる形で「ケインズ型福祉企業モデル」の打破に取り組んだ[15]

日本を例に挙げると、以下のような福祉政策の見直しが実施された[16]

老人保健法の制定による老人医療費無料化の廃止(1982年)

健康保険法の改正によって被保険者本人の医療費に10%の自己負担を導入(1984年)

基礎年金制度の導入によって国庫負担を基礎年金部分に限定(1986年)

老齢厚生年金の支給開始年齢を60歳から65歳に繰り下げ(1994年)

初期の福祉国家論

初期の福祉国家論では、福祉国家の発展を単線的に規定する独立変数が研究対象となった。フリードリヒ・ハイエクは、福祉国家の拡大が世代間格差を拡大させることを指摘している[17]
産業主義理論

ハロルド・ウィレンスキーは、64ヵ国の社会保障支出の対国民総生産比の差異を説明する独立変数としては経済水準が最も重要であり、また人口高齢化も非常に重要である一方、イデオロギー政治体制の差異は説明変数として有意ではない、と指摘している。このため、ウィレンスキーは、経済成長にともなって福祉国家が発展するという収斂論の代表的論者と見做された[18]。ただし、ウィレンスキーは、分析対象をOECDの加盟国に限定した場合は、政治的変数が有効になることも指摘している[19]
権力資源動員論

ウォルター・コルピらは、福祉国家の規模は各階級の政治的影響力のバランスによって規定されるものと考えた。すなわち、労働者階級が左派政党を通じて自己の政治的リソースを活用し、経営者に対抗しうる政治システムを構築する(「権力資源の投資」)ことに成功するか否かが、福祉国家を規模を左右する。さらに、福祉国家そのものが、労働者の相互の対立を緩和し連帯を促すという点で、労働者階級の権力資源となると主張した[20]
福祉レジーム論

こうしたなかで1990年にデンマークの社会学者エスピン=アンデルセンが提起した福祉レジーム論は、福祉国家研究の画期的な業績となった[21]

彼は、先進各国を脱商品化と階層化という指標を用いてクラスター化した。すなわち、脱商品化とは、疾病や加齢などの理由で労働市場を離脱した人が生活を維持できるか否かの指標であり、給付の水準と受給資格によって計測される。また、階層化とは、各人の階層や職種に応じた給付が行われた結果、格差が固定化されているか否かの指標。たとえば職域別の保険制度では階層化の度合いが高い。

以上2つの指標で西側先進諸国を分析した結果、自由主義的福祉国家(アメリカイギリスなどアングロサクソン諸国)、保守主義的福祉国家(大陸ヨーロッパ)、社会民主主義的福祉国家(北欧)の3類型を析出し、福祉国家の発展は1つではないと論じた[21]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:86 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef