福祉国家論
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一般に国民の福祉増進を国家の目標とし、相当程度に福祉を実現している現代国家をいい[2]、政治的には民主主義を、経済的には混合経済の体制を採る[3]

「福祉国家」の語は、1928年にスウェーデンの社会大臣グスタフ・メッレル(Gustav Moller)が選挙パンフレットで用いたほか、英語圏ではイギリスのウィリアム・テンプルが『市民と聖職者』(1941年)のなかで言及している[4]。特に第二次世界大戦中にはイギリスが、連合国を「福祉国家」、枢軸国を「戦争国家」(英:Warfare State)と政治宣伝した。

福祉国家論(ふくしこっかろん)は、福祉国家の形成、発展、変容の要因に関する研究のこと。オイルショック以後の「福祉国家の危機」に対する各国の対応が一様でなかったことから、福祉国家の多様性が意識されるようになり、福祉国家論が発展する契機になった。特にイエスタ・エスピン=アンデルセンが福祉国家に代わる新しい概念として福祉レジーム論を提起し、社会保障政策の特徴やグローバル化への対応の多様性を政治的イニシアティブや経済レジームとの連関で論じた。福祉国家の内容である社会保障政策については「社会保障」を参照
歴史

イギリスの社会学者リチャード・ティトマスは、第二次世界大戦後の福祉国家研究において各国の制度的違いに注目し、福祉国家を、@残余的(救貧的)モデル、A産業的業績達成モデル、B制度的再配分モデルという三つに分類することを提唱した。@の残余的福祉国家とは、家族あるいは市場がうまく機能しなかったときにのみ、国家が福祉の責任を引き受けるというモデルである。Aは経済成長を優先するモデルで、そのために社会福祉は存在するし、経済成長すれば社会福祉も充実するとする。Bの制度的再分配福祉国家は社会の厚生にとって重要なすべての分配領域に福祉の責任を広げるモデルである。この分類では、@が最も市場的で、Bが最も公的な介入が大きいことになり、アメリカなどが@、ドイツフランスがA、北欧などがBにあたると考えてよい。[5]
福祉国家思想の萌芽

福祉国家思想そのものは18世紀のイギリスや、ドイツ絶対主義国家のなかで形成されたものであり、自由主義に立脚する論としてはジョン・スチュアート・ミルトーマス・ヒル・グリーンらによって、絶対主義に立脚する論としてはクリスティアン・ヴォルフにより論じられた。ドイツにおいてはヴォルフが提唱するところの福祉助成の理念によって、啓蒙絶対君主(領主)により統治され高権的に施されるところの警察国家における「福祉国家」(Wohlfahrtsstaat)的側面を指す。イマヌエル・カントはこの絶対主義における福祉国家的側面について「福祉絶対主義」(Wohlfahrtsabsolutismus)と表現し、国家に依存するのではなく公共性に依存した福祉を提唱した[6]
マーシャルの市民権論

20世紀の福祉国家思想では、トマス・ハンフリー・マーシャルの市民権論が有名である。彼は、近代社会では市民的基本権(人身の自由、言論の自由思想・良心の自由財産権)、政治的基本権(参政権)、社会的基本権(生存権社会権)が段階的に成立していくと論じた[7]
ベヴァリッジ報告書詳細は「ベヴァリッジ報告書」および「社会保障#ベヴァリッジ報告」を参照

1941年のベヴァリッジ報告書においては、以下を「5つの悪」とし、国家による社会保障制度(Social Security)を整備することでこれに対抗し、それが不可能な場合に備えて公的扶助を設けるとした[8]
窮乏(want)

疾病(disease)

無知(ignorance)

不潔(squalor)

怠惰(idleness)

ベヴァリッジの目指すものは「完全な平等」ではなく、あくまでも最低限度(ナショナル・ミニマム)の保証であった(#自由主義的福祉レジーム[8]
欧州社会憲章

欧州評議会は国家と国際関係安定を目的に創設されたが、世界人権宣言の求める法の支配と基本的人権のさらなる普及と人間の安全保障の観点から、欧州人権条約を補完する欧州社会憲章を1961年に採択した。2012年時点での加盟国は北欧フランスイタリアトルコも含めた27ヵ国にとどまるが、選択議定書を含む障害者権利条約の欧州連合規模の批准などに影響を与えている。
福祉国家の展開
福祉国家の成立

欧米諸国では、16世紀以来の救貧法を脱して、20世紀の初頭ごろから、国民の権利としての所得保障や社会サービスが給付されるようになった。制度的な拡大としては、19世紀末に労災保険制度、1930年代から1940年代に老齢年金制度、さらに失業給付制度や家族手当、という具合に段階的に整備されている。また、対象者の範囲については、イギリスやスウェーデンなどではナショナル・ミニマムに基づく均一給付、大陸ヨーロッパ諸国では職域ごとの社会保険制度、アメリカでは黒人労働者の排除、というように多様な展開が見られた[9]
福祉国家の発展戦後の福祉国家の分岐

第二次世界大戦後の高度経済成長のなかで、先進各国は社会保障の充実を図った。そのなかで、福祉政策の対象範囲を困窮層に限定するか中間層まで広げるか、また、福祉政策を雇用政策に連関させるか否か、という分岐が見られた(右図)[10]

イギリスの福祉では第二次世界大戦直後に社会民主主義的な方向の政策が展開され、ベヴァリッジ報告書では社会保障制度の構想が提言された。総選挙で労働党が大勝したことでこの構想は実現されることになり、国民保健サービスや国民保険(英語版)といった制度が整備され、ゆりかごから墓場までと呼ばれることとなった。

日本を例に挙げると、以下のような福祉政策の拡充が実施された[11]

児童手当制度の開始(1972年)

老人医療費の無料化(1973年)

健康保険被扶養者の給付率を50%から70%に引き上げ(1973年)

厚生年金保険の給付額を2.5倍に引き上げて「五万円年金」(定年前給与の約60%)を実現すると同時に、物価スライド制を導入(1973年)

生活保護の扶助基準の引き上げ(1973年)

雇用保険四事業の開始(1975年)

福祉国家の危機

1973年と1979年のオイルショックを引き金に高度成長が終焉すると、それまでの福祉政策の拡充の原資となっていた税収が落ち込み、1981年に経済協力開発機構(OECD)が『福祉国家の危機』と題する報告書を公開[12]するなど、その行き詰まりが喧伝されるようになった。また、グローバル化の進展による資本を海外への逃避から繋ぎ止めるため、先進各国は、社会保障を最小限に切り詰める「最底辺への競争」に追い立てられるとされた[13]


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