福留孝介
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ちなみに中日時代の2006年には『毎日新聞』(毎日新聞社)の記事で「PL学園の先輩・立浪に代わる『ミスタードラゴンズ』に成長した」と言及されたことがあるほか[11]、立浪の応援歌を流用した中日時代の応援歌は1999年の入団から2006年の歌詞変更を経て翌2007年の退団まで使用された。

中学校卒業時には地元の複数の有力高校から勧誘を受けたが、立浪への憧れに加えて「先(プロ野球)のことを考えたらより強い高校へ進学したほうがいい」という理由でPL学園高校(大阪府富田林市)へ進学した[6]。1年(1993年)の夏から5番打者、1年の秋には4番打者を任された。1994年には2年春の第66回選抜高等学校野球大会で2年生にして唯一のレギュラー選手として出場。チームは準決勝で智弁和歌山高校に惜敗したが、福留は神戸弘陵高校との準々決勝で、2安打(いずれも適時打)を放つとともに3打点を挙げた。さらに、2年の冬に開かれた第1回AAAアジア野球選手権大会にも、日本代表として出場。渡辺元智監督の下で、代表チームの優勝に貢献した。

3年生だった1995年には、2年連続で選抜大会に出場。初戦の相手である銚子商業高校の4番打者にして、自身と同じ左打者の澤井良輔銚子商業高校)と並び称される格好で、大会屈指のスラッガーとして注目された。この試合では、澤井の本塁打で銚子商業が先制すると、福留もバックスクリーンに3点本塁打を放つなど、両チームで打撃戦を展開した末に延長戦へ突入。しかし、延長11回表に3点を勝ち越されると、チームは7-10で初戦敗退を喫した[12]

同年夏の第77回全国高等学校野球選手権大会では、大阪大会で7本塁打を記録。チームの全国大会出場に貢献するとともに、「高校No.1スラッガー」としてNPB球団のスカウト陣から注目を集めた。全国大会では、北海道工業高校(現・北海道科学大学高等学校)と1回戦で対戦。3回裏には、打線が自身の右前安打を皮切りに4点を奪うと、打者一巡で迎えた2回目の打席でライトスタンドに満塁本塁打を放った。さらに、5回裏の打席で選手権全国大会史上11人目の2打席連続本塁打を記録するなど、3打数3安打6打点の大活躍。1回戦での大勝を受けて臨んだ熊本・城北高校との2回戦では無安打に終わったものの、日本大学藤沢高校との3回戦では三塁打1本と1打点を記録。続く智弁学園との準々決勝でも二塁打1本を含む3安打を放ったが、チームは6-8で惜敗した[12]

3年生の夏の大会で打率.467(15打数7安打)・7打点・2本塁打と好成績を残したことから、秋のNPBドラフト会議では7球団(中日・巨人のほか近鉄バファローズ日本ハムファイターズ千葉ロッテマリーンズオリックス・ブルーウェーブヤクルトスワローズ)から1位指名を受けた。NPBのドラフト会議で、高校生の選手に対して7球団が1位指名で重複した事例は初めてで、高校の先輩・清原和博に対する6球団競合(1985年)をも上回った。結局、7球団による抽選の末に、近鉄バファローズが福留への交渉権を獲得。抽選に臨んだ近鉄の監督佐々木恭介は、交渉権の獲得を意味する当たりクジを引いた瞬間、「ヨッシャー」と声を上げながら喜んだ。しかし、福留自身が会議の前に「希望する中日、読売ジャイアンツ(巨人)以外の球団から指名された場合には社会人野球日本生命硬式野球部へ進む」との意思を示していたことから[8]、近鉄からの指名後に入団を辞退[注 2]。結局、日本生命へ入社した[注 3]

日本生命への入社後は三塁手へ転向し[3]、入社1年目の1996年には第67回都市対抗野球大会で若獅子賞を受賞[注 4]アトランタオリンピック野球日本代表に選ばれると、2本塁打を放つなど代表チームの銀メダル獲得に貢献した。アトランタオリンピックの野球競技へ出場した時点の年齢は19歳で、当時のオリンピック野球日本代表の最年少記録であった。翌1997年第68回都市対抗野球大会で優勝[3][13]。オフシーズンには社業の一環で保険の外交営業活動へ従事。


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