1996年以降、俳優の岸谷五朗の発起により始まったチャリティLIVEイベント「A.A.A.(Act Against AIDS)バラエティin武道館」の音楽監督を務めた。テーマ曲を作曲している[注 5]。
1998年からは、浜田省吾の4年をかけたロングツアー『ON THE ROAD 2001』にキーボード、ストリングスアレンジで初参加[6]。その後も2022年現在[update]まで24年に亘って、浜田のツアーとアルバム・レコーディングに帯同している[注 6]。浜田省吾とは、PS2専用のゲームソフト『OVER THE MONOCHROME RAINBOW featuring SHOGO HAMADA』の企画・総監督としても関わる(2003年[7][8])。
2004年「剱伎衆かむゐ」のファーストDVD『斬雪』をプロデュースする[要出典]。
2010年?2011年にかけて井上陽水のツアー「POWDER」に参加[要出典]。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
人物
出典検索?: "福田裕彦"
福田は音楽教師の父親と熱心なクラシック音楽ファンである母親の指導のもと、4歳でピアノのレッスンを始めるが、厳しいレッスンのストレスから6歳でチック症を発症、ピアノレッスンの強要は無くなった、と後に語っている[要出典]。
その後、アニメや特撮番組の耳コピーをして数年過ごすが、10歳の時クラシックピアノのレッスンを再開、17歳まで「なんとなく」(本人談)続ける[要出典]。中学を卒業するまでは「クラシック音楽にあらずんば音楽にあらず」という両親の頑なな態度が崩れず、中学になって好きになったエルトン・ジョンのアルバムなどを両親の留守を狙って聞いていたと言う[要出典]。
早稲田大学進学後は「いわゆる五月病が卒業するまで抜けず」、クラブにも属さず、高校時代に組んだ友人たちとのバンドサークルを維持。定期コンサートを行ううち、1978年に現・YAMAHA主催のバンドコンテスト日本楽器「EAST WEST '78」に自己のインストゥルメンタルバンド「夢職人」で出場、優秀賞を受賞する[注 7]。
1979年、「知り合いに頼まれて」ソウル系のバンドを組織し「EAST WEST '79」に出場した際に、予選会の審査員だったギタリストの山岸潤史に見出され、同年秋YAMAHAがカルロス・サンタナを招聘して行ったライブイベント「サンタナ・ギターウォーズ」にキーボーディストとして参加する[要出典]。これが実質的なプロ・デビューとなった。同年、福田はYAMAHAのシンセサイザー拡販事業の一環であるスクールの講師となると、神田の宮地楽器でシンセサイザーを教え始める。イエロー・マジック・オーケストラの登場などで市場は活況を呈し、このスクールも多くの生徒を集めた。1981年入学の生徒には、シンガーソングライターの飯島真理もいた[要出典]。
1999年には、日本テレビの番組『ウッチャンナンチャンのウリナリ』のコーナーで、ポケットビスケッツが3人それぞれソロでCDデビューした際に内村テル(内村光良)がソロ楽曲「青の住人」のピアノ演奏を弾いておらず、代わりに福田が弾いていた事が発覚して有名になる[注 8]。その後、福田は内村が生放送で「青の住人」の演奏をする特番に再び登場し[注 9]、この頃から「アノマロカリスのおじさん」と呼ばれる。後にウリナリ実行委員会の面々とCD発売を賭け勝負した際もアノマロカリスを持ってきて、「アノマロカリスの歌(「大きな古時計」の替え歌)」を披露していた。