福田恆存
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1933年(昭和8年)、東京帝国大学文学部英吉利文学科(英文科)入学。高校末期から大学初期にかけ執筆は劇作から批評に重きを置いた。これは小林秀雄の影響によるものだが、福田自身は小林の影響がこれ以上及ぶことを恐れ、『文藝評論』など僅かな作品にしか触れていない。[13]
戦前・戦中

1936年昭和11年)3月、東京帝国大学文学部英吉利文学科卒業。卒業論文は「D・H・ロレンスに於ける倫理の問題」、英題Moral Problems in D. H. Lawrence)。同年、徴兵検査を受け、丙種合格兵役免除。東大卒業後は旧制中学教師、出版社、団体職員などで勤務した[1]

1937年(昭和12年)1月、同期の友人高橋義孝に誘われ第一次『作家精神』の後継誌である『行動文学』の同人となり、論壇デビュー作として「横光利一と『作家の秘密』」を発表した。同年4月、不況下で就職先がなく、東京帝国大学大学院入学。1938年(昭和13年)5月から静岡県立掛川中学校(現・静岡県立掛川西高等学校)で教鞭を執るが、校長との不和により翌年7月に退職した。

1940年(昭和15年)には中学時代の恩師である西尾実の紹介により、雑誌『形成』編集者となる。このころ、神奈川県立湘南中学校(現・神奈川県立湘南高等学校)、浅野高等工学校(現・浅野工学専門学校)、日本大学医学部予科で教鞭を執る。1941年(昭和16年)、西尾の紹介で日本語教育振興会に参加し、雑誌『日本語』編集に関わった。翌1942年(昭和17年)には日本語教育振興会の命令により満州、モンゴル、中国を視察する。1944年(昭和19年)、日本語教育振興会退職。同年、太平洋協会研究員。

1944年(昭和20年)1月、西尾の媒酌により西本敦江(西本直民長女)と結婚。空襲が激しさを増す中で恆存以外の家族は静岡県に疎開する。同年6月、東京女子大学講師。
戦後福田と妻子(1948年)

1946年(昭和21年)10月、月刊誌『展望』にて「民衆の心」を発表。同年3月、神奈川県中郡大磯町に移住し、一家を疎開先の静岡県から呼び寄せる。1947年(昭和22年)に『批評』同人となる。また、中村光夫吉田健一と共に鉢の木会を結成する。1950年(昭和25年)に多摩美術大学教授。同年には岸田國士による「雲の会」創設に参加。1951年(昭和26年)、チャタレイ裁判に被告人側の特別弁護人として出廷し、小山書店社長小山久二郎の無罪を主張した。

1969年(昭和44年)、京都産業大学教授。京都には在住せず、月に一度の集中講義を行った。1983年(昭和58年)、京都産業大学退職。1981年(昭和56年)より日本芸術院(第2部)会員。
晩年

1987年(昭和62年)から1988年(昭和63年)にかけ『福田恆存全集』を刊行したが、平成に入ってからは、いくつかの雑誌に数ページ分の随筆・所感を書いた以外は執筆発表を行わず、『福田恆存翻訳全集』が完結した翌年の1994年(平成6年)11月20日に、肺炎により東海大学医学部付属大磯病院で没した[1]。享年82。戒名は実相院恆存日信居士[14]12月9日青山葬儀所で本葬・告別式が行われた。葬儀委員長は作家阿川弘之で、林健太郎久米明等が弔辞を述べた。墓所は神奈川県中郡大磯町妙大寺福田家之墓。

主な業績は、前記の『全集』や『翻訳全集』にまとめられた。ただし自選により、短編の論文随想に加え唯一の新聞連載小説である『謎の女』(新潮社1954年(昭和29年))をはじめ、生前刊行の全集・著作集には、未収録で知られざる論考著作も多い。2007年(平成19年)11月より、福田逸(次男・明治大学商学部教授で、演出家翻訳家財団法人「現代演劇協会」[15]理事長として演劇活動を継いだ)等の編集により、『福田恆存評論集』(麗澤大学出版会、カバー装丁)が刊行完結した(下記の全集・著作集を参照)。
活動
文芸評論

『行動文学』の同人として、「横光利一と『作家の秘密』」などを発表し文芸評論を開始。文芸評論者としては嘉村礒多芥川龍之介らに関する論考が、戦前や戦後間もない時期の主な作品である。また1947年(昭和22年)に『思索』春季号に発表された「一匹と九十九匹と」は、政治と文学の峻別を説く内容で、「政治と文学」論争に一石を投じた。この作品を福田の代表作とみなす見解も多い。『群像』1948年6月-7月に「道化の文学―太宰治論」を発表。1949年(昭和24年)より日英交流のための団体「あるびよん・くらぶ」に参加[16]

昭和20年代後半より、文学への関心は次第に個別の作家論や文芸批評を離れていった。この時期の代表作は、芸術をより根本的に論じた1950年(昭和25年)の『藝術とは何か』(要書房)や、芸術・演劇論から人間論にまで展開した1956年(昭和31年)の『人間・この劇的なるもの』(新潮社)などの著作である。


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