福田康夫
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ポスト小泉の候補として、安倍晋三の対立候補として総裁選への立候補が注目されたが、結局出馬しなかった。

2007年(平成19年)9月、安倍の突然の辞任劇の中、当初、後継総裁の最有力と見られた麻生太郎を抑え、自民党の大多数の派閥の支持を背景に2007年自由民主党総裁選挙に立候補する。麻生を破り、第22代自由民主党総裁に選出され、第91代内閣総理大臣に就任。史上初の親子二代での総理となった[3]2008年(平成20年)9月、内閣を総辞職し、内閣総理大臣・自民党総裁の職を辞した。2012年の衆議院選挙に出馬せず、同年11月に衆議院解散に伴い政界を引退した。
来歴幼少時の福田
生い立ち

1936年(昭和11年)7月16日東京府東京市世田谷区(現:東京都世田谷区)に大蔵官僚福田赳夫三枝の長男として生まれる[4]。父親の仕事の関係で1942年9月からの数ヶ月、南京に住み生活し@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}南京に対するあこがれや望郷の思いを抱く。[要出典]戦時中、父の実家の群馬県群馬郡金古町(後に群馬町、現:高崎市)に疎開していた[5]。金古町立金古小学校(現、高崎市立金古小学校)、大宮市立南小学校(現:さいたま市立大宮南小学校)、東京高等師範附属小学校(現:筑波大学附属小学校)、渋谷区立猿楽小学校などに学ぶ。1949年(昭和24年)3月、東京第一師範学校男子部附属小学校(現:東京学芸大学附属世田谷小学校)卒業。小学生時代の福田は野球の好きなスポーツ少年で、在中国大使を務めた谷野作太郎とはこのときから交流があった[6]

1952年(昭和27年)3月、麻布中学校1955年(昭和30年)3月、麻布高等学校卒業[7]。中高時代は文学や音楽に親しみ、成績は優秀であった[5][8]。同級生には声優柴田秀勝や、物流大手のサンリツ会長の三浦正英などがいる[5]

1959年(昭和34年)3月、早稲田大学第一政治経済学部経済学科を卒業。大阪に本社を置く丸善石油(現:コスモ石油)に入社し、1962年(昭和37年)3月から2年間、米国ロサンゼルス支店に赴任[7]。帰国後に石油製品の輸入課長も務め、石油の価格、量の動向の予測、判断、産地国からの石油調達の輸入業務などを行っていた[9][10][11]。このときオイルショック(第1次、1973年)を経験している[12]

1966年(昭和41年)に元衆議院議長桜内義雄嶺貴代子に、「政治家の女房にはしない」と誓い結婚[6]
政界入り

政界入りはしないとしていた福田だが、父の後継者とされた次男で養子に出した横手征夫が病気となり、母三枝が後継者に推したこともあって、政治家を志す[6][13]1976年11月に会社を辞め、衆議院議員秘書となり[7]1977年12月から1年間、父・赳夫の内閣総理大臣秘書官を務める。事務担当秘書官には、保田博棚橋祐治小和田恆らがいた。このことで、議員になる前より外務省にパイプができた。秘書官として、日中平和友好条約へ向けた中国、アメリカとの舞台裏交渉に関与した。1990年2月に第39回衆議院議員総選挙で、群馬3区から出馬して当選(小選挙区制導入後は群馬4区選出)。


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