福澤諭吉
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」「畢竟支那人が其国の広大なるを自負して他を蔑視し、且数千年来陰陽五行の妄説に惑溺して物事の真理原則を求るの鍵を放擲したるの罪なり」と断じている[56]

そのような諭吉にとって日清戦争は、「日本の国権拡張のための戦争である」と同時に「西洋学と儒教の思想戦争」でもあった[57]。諭吉は豊島沖海戦直後の明治27年(1894年)7月29日に時事新報で日清戦争について「文野の戦争」「文明開化の進歩を謀るものと其進歩を妨げんとするものの戦」と定義した[58]

戦勝後には山口広江に送った手紙の中で「(自分は)古学者流の役に立たぬことを説き、立国の大本はただ西洋流の文明主義に在るのみと、多年蝶々して已まなかったものの迚も生涯の中にその実境に遭うことはなかろうと思っていたのに、何ぞ料らん今眼前にこの盛事を見て、今や隣国支那朝鮮も我文明の中に包羅せんとす。畢生の愉快、実以て望外の仕合に存候」と思想戦争勝利の確信を表明した[59]。自伝の中でも「顧みて世の中を見れば堪え難いことも多いようだが、一国全体の大勢は改進進歩の一方で、次第々々に上進して、数年の後その形に顕れたるは、日清戦争など官民一致の勝利、愉快とも難有(ありがた)いとも言いようがない。命あればこそコンナことを見聞するのだ、前に死んだ同志の朋友が不幸だ、アア見せてやりたいと、毎度私は泣きました」(『福翁自伝』、「老余の半生」)とその歓喜の念を述べている[60][61]

しかし諭吉の本来の目的は『国権論』や『内安外競論』において示されるように西洋列強の東侵阻止であり、日本の軍事力は日本一国のためだけにあるのではなく、西洋諸国から東洋諸国を保護するためにあるというものだった[36]。そのため李氏朝鮮の金玉均などアジアの「改革派」を熱心に支援した[32]。明治14年(1881年)6月に塾生の小泉信吉日原昌造に送った書簡の中で諭吉は「本月初旬朝鮮人[要曖昧さ回避]数名日本の事情視察のため渡来。其中壮年二名本塾へ入社いたし、二名共先づ拙宅にさし置、やさしく誘導致し遣居候。誠に二十余年前の自分の事を思へば同情相憐れむの念なきを不得、朝鮮人が外国留学の頭初、本塾も亦外人を入るるの発端、実に奇遇と可申、右を御縁として朝鮮人は貴賎となく毎度拙宅へ来訪、其咄を聞けば、他なし、三十年前の日本なり。何卒今後は良く附合開らける様に致度事に御座候」と書いており、朝鮮人の慶應義塾への入塾を許可し、また朝鮮人に親近感を抱きながら接していたことも分かる[32]
漢学について

諭吉は漢学を徹底的に批判した。そのため崇拝者から憎悪されたが、そのことについて諭吉は自伝の中で「私はただ漢学に不信仰で、漢学に重きを置かぬだけではない。一歩進めていわゆる腐儒の腐説を一掃してやろうと若いころから心がけていた。そこで尋常一様の洋学者・通詞などいうような者が漢学者の事を悪く言うのは当たり前の話で、あまり毒にもならぬ。ところが私はずいぶん漢学を読んでいる。読んでいながら知らぬ風をして毒々しい事をいうから憎まれずにはいられぬ」「かくまでに私が漢学を敵視したのは、今の開国の時節に古く腐れた漢説が後進少年生の脳中にわだかまっては、とても西洋の文明は国に入ることができぬと、あくまで信じて疑わず、いかにもして彼らを救い出して我が信ずるところへ導かんと、あらゆる限りの力を尽くし、私の真面目を申せば、日本国中の漢学者はみんな来い、俺が一人で相手になろうというような決心であった」とその心境を語っている[62]

『文明論之概略』では孔子孟子を「古来稀有の思想家」としつつ、儒教的な「政教一致」の欠点を指摘した[63]。『学問のすすめ』においては、孔子の時代は2000年前の野蛮草昧の時代であり、天下の人心を維持せんがために束縛する権道しかなかったが、後世に孔子を学ぶ者は時代を考慮に入れて取捨すべきであって、2000年前に行われた教をそのまま現在に行おうとする者は事物の相場を理解しない人間と批判する。また西洋の諸大家は次々と新説を唱えて人々を文明に導いているが、これは彼らが古人が確定させた説にも反駁し、世の習慣にも疑義を入れるからこそ可能なことと論じた[64]
白人至上主義

白人を絶賛する一方で黄色人種については「勉励事を為すと雖ども其才力狭くして事物の進歩甚だ遅し」と否定的であり、さらにその他の有色人種については野蛮人と評している。前条の如く世界の人員を五に分ち其性情風俗の大概を論ずること左の如し
(一)白皙人種
皮膚麗しく毛髪細にして長く頂骨大にして前額(ヒタイ)高く容貌骨格都て美なり其精心は聡明にして文明の極度に達す可きの性ありこれを人種の最とす欧羅巴一洲、亜細亜の西方亜非利加の北方、及ひ亜米利加に住居する白哲人は此種類の人なり
(二)黄色人種
皮膚の色黄にして油の如く毛髪長くして黒く直くにして剛し頭の状稍や四角にして前額低く腮骨平にして広く鼻短く眼細く且其外眥斜に上れり其人の性情よく艱苦に堪へ勉励事を為すと雖ども其才力狭くして事物の進歩甚だ遅し支那「フヒンランド」(魯西亜領西北ノ地)「ラプランドル」(同上フヒンランド北方ノ地)等の居民は此種類の人なり
(三)赤色人種
皮膚赤色と茶色とを帯て銅の如く、黒髪直くして長く、頂骨小にして腮(ホウ)骨高く前額低く口広く眼光暗くして深く鼻の状、尖り曲て釣の如く又鷲の嘴(クチバシ)の如し体格長大にして強壮、性情険くして闘を好み復讎の念常に絶ることなし南北亜米利加の土人は此種類の人なり但しこの人種は白皙人の文明に赴くに従ひ次第に衰微し人員日に減少すと云ふ
(四)黒色人種
皮膚の色黒く捲髪(チヾレゲ)羊毛を束ねたるが如く頭の状、細く長く腮(ホウ)骨高く顋(アギト)骨突出し前額低く鼻平たく眼大にして突出し口大にして唇厚し其身体強壮にして活溌に事をなすべしと雖ども性質懶惰にして開化進歩の味を知らず亜非利加沙漠の南方に在る土民及び売奴と為て亜米利加へ移居せる黒奴等は此種類の人なり
(五)茶色人種
皮膚茶色にして渋(シブ)の如く黒髪粗にして長く前額低くして広く口大にして鼻短く眥(マシリ)は斜に上ること黄色人種の如し其性情猛烈復讎の念甚だ盛なり太平洋亜非利加の海岸に近き諸島及び「マラッカ」(東印度の地)等の土民はこの種類の人なり ? 福澤諭吉、『掌中万国一覧』21-26頁
議会政治・自由民権運動について

諭吉は明治12年(1879年)の『民情一新』の中で、「現代において国内の平和を維持する方法は権力者が長居しないで適時交替していくことであるとして、国民の投票によって権力者が変わっていくイギリス政党政治議会政治を大いに参考にすべし」と論じた。国会開設時期については政府内で最も強く支持されていた「漸進論に賛成する」と表明しつつ、過度に慎重な意見は「我が日本は開国二十年の間に二百年の事を成したるに非ずや。皆是れ近時文明の力を利用して然るものなり」「人民一般に智徳生じて然る後に国会を開くの説は、全一年間一日も雨天なき好天気を待て旅行を企てるものに異ならず。到底出発の期無かるべし」「今の世に在りて十二年前の王政維新を尚早しと云はざるものは、又今日国会尚早しの言を吐く可きにあらざるなり」として退けている[65]

ただし、諭吉は国内の闘争よりも国外に日本の国権を拡張させることをより重視し、「内安外競」「官民調和」を持論としたため、自由民権運動に興じる急進派には決して同調せず、彼らのことを「駄民権論者」「ヘコヲビ書生」と呼んで軽蔑し、その主張について「犬の吠ゆるに異ならず」と批判した[66]。『時事小言』の中で諭吉は「政府は国会を開いて国内の安寧を図り、心を合わせて外に向かって国権を張るべきこと」を強調している[67]

また諭吉が明治14年(1881年)にロンドンに滞在している慶應義塾生の小泉信吉に送った手紙には「地方処々の演説、所謂ヘコヲビ書生の連中、其風俗甚だ不宜(よろしからず)、近来に至ては県官を罵倒する等は通り過ぎ、極々の極度に至ればムツヒト(=明治天皇)云々を発言する者あるよし、実に演説も沙汰の限りにて甚だ悪しき兆候、斯くては捨置難き事と、少々づつ内談いたし居候義に御座候」と書かれており、皇室への不敬な姿勢などの自由民権論者の不作法も許しがたいものがあったようである[68]
諭吉の男女論

諭吉は、明治維新になって欧米諸国の女性解放思想をいち早く日本に紹介した。「人倫の大本は夫婦なり」として一夫多妻をもつことを非難し、女性にも自由を与えなければならぬとし、女も男も同じ人間であるため、同様の教育を受ける権利があると主張した[69]。自身の娘にも幼少より芸事を仕込み、ハインリヒ・フォン・シーボルト夫人に芸事の指導を頼んでいた。

諭吉が女性解放思想で一番影響を受けていたのがイギリスの哲学者・庶民院議員ジョン・スチュアート・ミルであり、『学問のすすめ』の中でも「今の人事に於て男子は外を努め婦人は内を治るとて其関係殆ど天然なるが如くなれども、ステュアート・ミルは婦人論を著して、万古一定動かす可らざるの此習慣を破らんことを試みたり」と彼の先駆性を称えている[70]

一方で農村の女子教育には大変否定的であり、女子語学学校ブームに対して「嫁しては主夫の襤褸(ぼろ)を補綴(ほてい)する貧寒女子への読本を教えて後世何の益あるべきや」「農民の婦女子、貧家の女子中、稀に有為の俊才を生じ、偶然にも大に社会を益したることなきにあらざれども、こは千百人中の一にして、はなはだ稀有のこと」「狂気の沙汰」と論じている[71]

明治7年(1874年)に発足した慶應義塾幼稚舎が、同10年(1877年)以降しばらくの間、男女をともに教育した例があり、これは近代化以降の日本の教育における男女教育のいち早い希有なことであった。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}なお、明治民法の家族法の草案段階は、諭吉の男女同等論に近いものであったり諭吉もそれを支持したが、士族系の反対があったため家父長制のものに書き換えられた[独自研究?]。旧民法(明治23年法律第28号、第98号)をめぐる民法典論争では法典公布前から政府による民商両法典の拙速主義を批判し、延期派の論陣を張っている[72]

『時事新報』1885年6月4日-6月12日、7月7日-7月17日に「日本婦人論」を発表、後編は8月刊、前編は当時刊行されなかった。
著作の方針と著作権


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