福澤諭吉
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諭吉の「独立自尊迎新世紀」という大書はこの会で最初に披露されたものと言われている[51]


1901年(明治34年)

1月25日、再び脳出血で倒れる。

2月3日、再出血し、午後10時50分死去[52]。葬儀の際、遺族は諭吉の遺志を尊重し献花を丁寧に断ったが、盟友である大隈重信が涙ながらに持ってきた花を、福澤家は黙って受け取った。また、死によせて福地源一郎が書いた記事は会心の出来映えで、明治期でも指折りの名文とされる。爵位を断る。

2月7日衆議院において満場一致で哀悼を決議[53]

2月8日、葬儀が執り行われた。生前の考えを尊重して「塾葬」とせず、福澤家の私事とされる[54]


諭吉は、大学の敷地内に居を構えていたため、慶應義塾大学三田キャンパスに諭吉の終焉の地を示した石碑が設置されている(旧居の基壇の一部が今も残る)。戒名は「大観院独立自尊居士」で、麻布山善福寺にその墓がある。命日の2月3日は雪池忌(ゆきちき)と呼ばれ、塾長以下学生など多くの慶應義塾関係者が墓参する。

昭和52年(1977年)、最初の埋葬地(常光寺)から麻布善福寺へ改葬の際、諭吉の遺体がミイラ死蝋)化して残っているのが発見された。外気と遮断され、比較的低温の地下水に浸され続けたために腐敗が進まず保存されたものと推定された。学術解剖や遺体保存の声もあったが、遺族の強い希望でそのまま荼毘にふされた。

福澤諭吉終焉之地

雪池忌

人物・思想祓戸神社前にある福澤諭吉の像福澤諭吉像(三田)福澤諭吉像(日吉)福澤馴染みの酒屋「津國屋」
三田に現存
アジア近隣諸国や日清戦争観

諭吉は、東洋の旧習に妄執し西洋文明を拒む者を批判した。『学問のすすめ』の中で「文明の進歩は、天地の間にある有形の物にても無形の人事にても、其働の趣を詮索して真実を発明するに在り。西洋諸国民の人民が今日の文明に達したる其源を尋れば、凝の一点より出でざるものなし。之を彼の亜細亜諸州の人民が、虚誕妄説を軽信して巫蠱神仏に惑溺し、或いは所謂聖賢者(孔子など)の言を聞て一時に之に和するのみならず、万世の後に至て尚其言の範囲を脱すること能はざるものに比すれば、其品行の優劣、心勇の勇怯、固より年を同して語る可らざるなり。」と論じている[55]

とりわけ中国人の西洋化・近代化への怠慢ぶりを批判した。明治14年(1881年)には中国人は100年も前から西洋と接してきたことを前置きした上で「百年の久しき西洋の書を講ずる者もなく、西洋の器品を試用する者もなし。其改新の緩慢遅鈍、実に驚くに堪えり。」「畢竟支那人が其国の広大なるを自負して他を蔑視し、且数千年来陰陽五行の妄説に惑溺して物事の真理原則を求るの鍵を放擲したるの罪なり」と断じている[56]

そのような諭吉にとって日清戦争は、「日本の国権拡張のための戦争である」と同時に「西洋学と儒教の思想戦争」でもあった[57]。諭吉は豊島沖海戦直後の明治27年(1894年)7月29日に時事新報で日清戦争について「文野の戦争」「文明開化の進歩を謀るものと其進歩を妨げんとするものの戦」と定義した[58]

戦勝後には山口広江に送った手紙の中で「(自分は)古学者流の役に立たぬことを説き、立国の大本はただ西洋流の文明主義に在るのみと、多年蝶々して已まなかったものの迚も生涯の中にその実境に遭うことはなかろうと思っていたのに、何ぞ料らん今眼前にこの盛事を見て、今や隣国支那朝鮮も我文明の中に包羅せんとす。畢生の愉快、実以て望外の仕合に存候」と思想戦争勝利の確信を表明した[59]。自伝の中でも「顧みて世の中を見れば堪え難いことも多いようだが、一国全体の大勢は改進進歩の一方で、次第々々に上進して、数年の後その形に顕れたるは、日清戦争など官民一致の勝利、愉快とも難有(ありがた)いとも言いようがない。命あればこそコンナことを見聞するのだ、前に死んだ同志の朋友が不幸だ、アア見せてやりたいと、毎度私は泣きました」(『福翁自伝』、「老余の半生」)とその歓喜の念を述べている[60][61]

しかし諭吉の本来の目的は『国権論』や『内安外競論』において示されるように西洋列強の東侵阻止であり、日本の軍事力は日本一国のためだけにあるのではなく、西洋諸国から東洋諸国を保護するためにあるというものだった[36]。そのため李氏朝鮮の金玉均などアジアの「改革派」を熱心に支援した[32]。明治14年(1881年)6月に塾生の小泉信吉日原昌造に送った書簡の中で諭吉は「本月初旬朝鮮人[要曖昧さ回避]数名日本の事情視察のため渡来。其中壮年二名本塾へ入社いたし、二名共先づ拙宅にさし置、やさしく誘導致し遣居候。誠に二十余年前の自分の事を思へば同情相憐れむの念なきを不得、朝鮮人が外国留学の頭初、本塾も亦外人を入るるの発端、実に奇遇と可申、右を御縁として朝鮮人は貴賎となく毎度拙宅へ来訪、其咄を聞けば、他なし、三十年前の日本なり。何卒今後は良く附合開らける様に致度事に御座候」と書いており、朝鮮人の慶應義塾への入塾を許可し、また朝鮮人に親近感を抱きながら接していたことも分かる[32]
漢学について

諭吉は漢学を徹底的に批判した。そのため崇拝者から憎悪されたが、そのことについて諭吉は自伝の中で「私はただ漢学に不信仰で、漢学に重きを置かぬだけではない。一歩進めていわゆる腐儒の腐説を一掃してやろうと若いころから心がけていた。そこで尋常一様の洋学者・通詞などいうような者が漢学者の事を悪く言うのは当たり前の話で、あまり毒にもならぬ。ところが私はずいぶん漢学を読んでいる。読んでいながら知らぬ風をして毒々しい事をいうから憎まれずにはいられぬ」「かくまでに私が漢学を敵視したのは、今の開国の時節に古く腐れた漢説が後進少年生の脳中にわだかまっては、とても西洋の文明は国に入ることができぬと、あくまで信じて疑わず、いかにもして彼らを救い出して我が信ずるところへ導かんと、あらゆる限りの力を尽くし、私の真面目を申せば、日本国中の漢学者はみんな来い、俺が一人で相手になろうというような決心であった」とその心境を語っている[62]

『文明論之概略』では孔子孟子を「古来稀有の思想家」としつつ、儒教的な「政教一致」の欠点を指摘した[63]。『学問のすすめ』においては、孔子の時代は2000年前の野蛮草昧の時代であり、天下の人心を維持せんがために束縛する権道しかなかったが、後世に孔子を学ぶ者は時代を考慮に入れて取捨すべきであって、2000年前に行われた教をそのまま現在に行おうとする者は事物の相場を理解しない人間と批判する。また西洋の諸大家は次々と新説を唱えて人々を文明に導いているが、これは彼らが古人が確定させた説にも反駁し、世の習慣にも疑義を入れるからこそ可能なことと論じた[64]
白人至上主義

白人を絶賛する一方で黄色人種については「勉励事を為すと雖ども其才力狭くして事物の進歩甚だ遅し」と否定的であり、さらにその他の有色人種については野蛮人と評している。前条の如く世界の人員を五に分ち其性情風俗の大概を論ずること左の如し
(一)白皙人種
皮膚麗しく毛髪細にして長く頂骨大にして前額(ヒタイ)高く容貌骨格都て美なり其精心は聡明にして文明の極度に達す可きの性ありこれを人種の最とす欧羅巴一洲、亜細亜の西方亜非利加の北方、及ひ亜米利加に住居する白哲人は此種類の人なり
(二)黄色人種
皮膚の色黄にして油の如く毛髪長くして黒く直くにして剛し頭の状稍や四角にして前額低く腮骨平にして広く鼻短く眼細く且其外眥斜に上れり其人の性情よく艱苦に堪へ勉励事を為すと雖ども其才力狭くして事物の進歩甚だ遅し支那「フヒンランド」(魯西亜領西北ノ地)「ラプランドル」(同上フヒンランド北方ノ地)等の居民は此種類の人なり
(三)赤色人種
皮膚赤色と茶色とを帯て銅の如く、黒髪直くして長く、頂骨小にして腮(ホウ)骨高く前額低く口広く眼光暗くして深く鼻の状、尖り曲て釣の如く又鷲の嘴(クチバシ)の如し体格長大にして強壮、性情険くして闘を好み復讎の念常に絶ることなし南北亜米利加の土人は此種類の人なり但しこの人種は白皙人の文明に赴くに従ひ次第に衰微し人員日に減少すと云ふ
(四)黒色人種
皮膚の色黒く捲髪(チヾレゲ)羊毛を束ねたるが如く頭の状、細く長く腮(ホウ)骨高く顋(アギト)骨突出し前額低く鼻平たく眼大にして突出し口大にして唇厚し其身体強壮にして活溌に事をなすべしと雖ども性質懶惰にして開化進歩の味を知らず亜非利加沙漠の南方に在る土民及び売奴と為て亜米利加へ移居せる黒奴等は此種類の人なり
(五)茶色人種
皮膚茶色にして渋(シブ)の如く黒髪粗にして長く前額低くして広く口大にして鼻短く眥(マシリ)は斜に上ること黄色人種の如し其性情猛烈復讎の念甚だ盛なり太平洋亜非利加の海岸に近き諸島及び「マラッカ」(東印度の地)等の土民はこの種類の人なり ? 福澤諭吉、『掌中万国一覧』21-26頁
議会政治・自由民権運動について

諭吉は明治12年(1879年)の『民情一新』の中で、「現代において国内の平和を維持する方法は権力者が長居しないで適時交替していくことであるとして、国民の投票によって権力者が変わっていくイギリス政党政治議会政治を大いに参考にすべし」と論じた。国会開設時期については政府内で最も強く支持されていた「漸進論に賛成する」と表明しつつ、過度に慎重な意見は「我が日本は開国二十年の間に二百年の事を成したるに非ずや。皆是れ近時文明の力を利用して然るものなり」「人民一般に智徳生じて然る後に国会を開くの説は、全一年間一日も雨天なき好天気を待て旅行を企てるものに異ならず。到底出発の期無かるべし」「今の世に在りて十二年前の王政維新を尚早しと云はざるものは、又今日国会尚早しの言を吐く可きにあらざるなり」として退けている[65]


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