福澤諭吉
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1885年(明治18年)9月19日英吉利法律学校開校式に参列[47]

1886年(明治19年)12月11日明治法律学校南甲賀町校舎移転開校式に参列[48]

1887年(明治20年):伊藤博文首相主催の仮装舞踏会を家事の都合を理由として欠席する。

1889年(明治22年):8月、「慶應義塾規約」を制定。

1890年(明治23年):1月、慶應義塾に大学部発足、文学科・理財科・法律科の3科を置く。

1892年(明治25年):「伝染病研究所」を設立する(北里柴三郎が初代所長となる)。

1893年(明治26年):「土筆ヶ岡養生園」を開設する。

1894年(明治27年):郷里、中津の景勝・競秀峰を自然保護のため買い取る。

1895年(明治28年) - 30年(1897年):箱根京都大阪広島伊勢神宮山陽方面へ旅行に出る。

1898年(明治31年)

5月、慶應義塾の学制を改革し、一貫教育制度を樹立、政治科を増設。

9月26日脳出血で倒れ、いったん回復。


1899年(明治32年)

1月21日勝海舟没。多年にわたる著訳教育の功労により、皇室から金5万円を下賜される。

8月8日、再び倒れ意識不明になったが、約1時間後に意識を回復。『修身要領』完成。


1900年(明治33年)

2月24日、三田演説会で『修身要領』を発表[49]

12月31日、翌年の幕明けにかけて慶應義塾生らと19世紀20世紀の「世紀送迎会」を開催[50]日本では和暦である元号神武天皇即位紀元(通称:皇紀)が主流で、西暦世紀の概念が普及していない中の新しい試みであった。諭吉の「独立自尊迎新世紀」という大書はこの会で最初に披露されたものと言われている[51]


1901年(明治34年)

1月25日、再び脳出血で倒れる。

2月3日、再出血し、午後10時50分死去[52]。葬儀の際、遺族は諭吉の遺志を尊重し献花を丁寧に断ったが、盟友である大隈重信が涙ながらに持ってきた花を、福澤家は黙って受け取った。また、死によせて福地源一郎が書いた記事は会心の出来映えで、明治期でも指折りの名文とされる。爵位を断る。

2月7日衆議院において満場一致で哀悼を決議[53]

2月8日、葬儀が執り行われた。生前の考えを尊重して「塾葬」とせず、福澤家の私事とされる[54]


諭吉は、大学の敷地内に居を構えていたため、慶應義塾大学三田キャンパスに諭吉の終焉の地を示した石碑が設置されている(旧居の基壇の一部が今も残る)。戒名は「大観院独立自尊居士」で、麻布山善福寺にその墓がある。命日の2月3日は雪池忌(ゆきちき)と呼ばれ、塾長以下学生など多くの慶應義塾関係者が墓参する。

昭和52年(1977年)、最初の埋葬地(常光寺)から麻布善福寺へ改葬の際、諭吉の遺体がミイラ死蝋)化して残っているのが発見された。外気と遮断され、比較的低温の地下水に浸され続けたために腐敗が進まず保存されたものと推定された。学術解剖や遺体保存の声もあったが、遺族の強い希望でそのまま荼毘にふされた。

福澤諭吉終焉之地

雪池忌

人物・思想祓戸神社前にある福澤諭吉の像福澤諭吉像(三田)福澤諭吉像(日吉)福澤馴染みの酒屋「津國屋」
三田に現存
アジア近隣諸国や日清戦争観

諭吉は、東洋の旧習に妄執し西洋文明を拒む者を批判した。『学問のすすめ』の中で「文明の進歩は、天地の間にある有形の物にても無形の人事にても、其働の趣を詮索して真実を発明するに在り。西洋諸国民の人民が今日の文明に達したる其源を尋れば、凝の一点より出でざるものなし。之を彼の亜細亜諸州の人民が、虚誕妄説を軽信して巫蠱神仏に惑溺し、或いは所謂聖賢者(孔子など)の言を聞て一時に之に和するのみならず、万世の後に至て尚其言の範囲を脱すること能はざるものに比すれば、其品行の優劣、心勇の勇怯、固より年を同して語る可らざるなり。」と論じている[55]

とりわけ中国人の西洋化・近代化への怠慢ぶりを批判した。明治14年(1881年)には中国人は100年も前から西洋と接してきたことを前置きした上で「百年の久しき西洋の書を講ずる者もなく、西洋の器品を試用する者もなし。其改新の緩慢遅鈍、実に驚くに堪えり。」「畢竟支那人が其国の広大なるを自負して他を蔑視し、且数千年来陰陽五行の妄説に惑溺して物事の真理原則を求るの鍵を放擲したるの罪なり」と断じている[56]

そのような諭吉にとって日清戦争は、「日本の国権拡張のための戦争である」と同時に「西洋学と儒教の思想戦争」でもあった[57]。諭吉は豊島沖海戦直後の明治27年(1894年)7月29日に時事新報で日清戦争について「文野の戦争」「文明開化の進歩を謀るものと其進歩を妨げんとするものの戦」と定義した[58]

戦勝後には山口広江に送った手紙の中で「(自分は)古学者流の役に立たぬことを説き、立国の大本はただ西洋流の文明主義に在るのみと、多年蝶々して已まなかったものの迚も生涯の中にその実境に遭うことはなかろうと思っていたのに、何ぞ料らん今眼前にこの盛事を見て、今や隣国支那朝鮮も我文明の中に包羅せんとす。畢生の愉快、実以て望外の仕合に存候」と思想戦争勝利の確信を表明した[59]。自伝の中でも「顧みて世の中を見れば堪え難いことも多いようだが、一国全体の大勢は改進進歩の一方で、次第々々に上進して、数年の後その形に顕れたるは、日清戦争など官民一致の勝利、愉快とも難有(ありがた)いとも言いようがない。命あればこそコンナことを見聞するのだ、前に死んだ同志の朋友が不幸だ、アア見せてやりたいと、毎度私は泣きました」(『福翁自伝』、「老余の半生」)とその歓喜の念を述べている[60][61]

しかし諭吉の本来の目的は『国権論』や『内安外競論』において示されるように西洋列強の東侵阻止であり、日本の軍事力は日本一国のためだけにあるのではなく、西洋諸国から東洋諸国を保護するためにあるというものだった[36]。そのため李氏朝鮮の金玉均などアジアの「改革派」を熱心に支援した[32]。明治14年(1881年)6月に塾生の小泉信吉日原昌造に送った書簡の中で諭吉は「本月初旬朝鮮人[要曖昧さ回避]数名日本の事情視察のため渡来。其中壮年二名本塾へ入社いたし、二名共先づ拙宅にさし置、やさしく誘導致し遣居候。誠に二十余年前の自分の事を思へば同情相憐れむの念なきを不得、朝鮮人が外国留学の頭初、本塾も亦外人を入るるの発端、実に奇遇と可申、右を御縁として朝鮮人は貴賎となく毎度拙宅へ来訪、其咄を聞けば、他なし、三十年前の日本なり。何卒今後は良く附合開らける様に致度事に御座候」と書いており、朝鮮人の慶應義塾への入塾を許可し、また朝鮮人に親近感を抱きながら接していたことも分かる[32]
漢学について

諭吉は漢学を徹底的に批判した。そのため崇拝者から憎悪されたが、そのことについて諭吉は自伝の中で「私はただ漢学に不信仰で、漢学に重きを置かぬだけではない。一歩進めていわゆる腐儒の腐説を一掃してやろうと若いころから心がけていた。そこで尋常一様の洋学者・通詞などいうような者が漢学者の事を悪く言うのは当たり前の話で、あまり毒にもならぬ。ところが私はずいぶん漢学を読んでいる。読んでいながら知らぬ風をして毒々しい事をいうから憎まれずにはいられぬ」「かくまでに私が漢学を敵視したのは、今の開国の時節に古く腐れた漢説が後進少年生の脳中にわだかまっては、とても西洋の文明は国に入ることができぬと、あくまで信じて疑わず、いかにもして彼らを救い出して我が信ずるところへ導かんと、あらゆる限りの力を尽くし、私の真面目を申せば、日本国中の漢学者はみんな来い、俺が一人で相手になろうというような決心であった」とその心境を語っている[62]

『文明論之概略』では孔子孟子を「古来稀有の思想家」としつつ、儒教的な「政教一致」の欠点を指摘した[63]


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