福澤諭吉
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揮毫の落款印は「明治卅弐年後之福翁」[2]雅号は、三十一谷人(さんじゅういっこくじん)[3]

もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになった[4]。現代では「福沢諭吉」と表記されることが一般的となっている[注釈 1]。なお「中村諭吉」と名乗っていた時期がある[5]
概説

慶應義塾(旧蘭学塾、現慶應義塾大学はじめ系列校)の他にも、商法講習所(現一橋大学)、神戸商業講習所(現神戸商業高校)、北里柴三郎の「伝染病研究所」(現東京大学医科学研究所)、「土筆ヶ岡養生園」(現東京大学医科学研究所附属病院)の創設にも尽力した。新聞『時事新報』の創刊者でもある。

ほかに東京学士会院(現日本学士院)初代会長を務めた。そうした業績を基に「明治六大教育家」として列される。

昭和59年(1984年11月1日発行分から日本銀行券一万円紙幣D号券E号券)表面の肖像に採用されている[6]
経歴
出生から中津帰藩、長崎遊学生誕の地と中津藩蔵屋敷跡の記念碑(大阪府大阪市福島区福島一丁目。ほたるまち内、朝日放送グループホールディングス社屋前)福澤諭吉旧居(大分県中津市

大坂堂島新地五丁目 にあった豊前国中津藩(現:大分県中津市)の蔵屋敷で下級藩士・福澤百助と妻・於順の間に次男(8?9歳上の兄と3人の姉〈6歳上、4歳上、2歳上〉を持つ末子)として生まれる。諭吉という名は、儒学者でもあった父が『上諭条例』(乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に彼が生まれたことに由来する。福澤氏の祖は信濃国更級郡村上村網掛福澤あるいは同国諏訪郡福澤村を発祥として、前者は清和源氏村上氏為国流、後者は諏訪氏支流とする説があり、友米(ともよね)の代に豊前国中津郡に移住した[7][注釈 2]。詳細は「関連系図」を参照

友米の孫である父・百助は、鴻池加島屋などの大坂の商人を相手に藩の借財を扱う職にありながら、藩儒・野本雪巌や帆足万里に学び、菅茶山伊藤東涯などの儒学に通じた学者でもあった[注釈 3]。百助の後輩には近江国水口藩・藩儒の中村栗園がおり、深い親交があった栗園は百助の死後も諭吉の面倒を見ていた。中小姓格(厩方)の役人となり、大坂での勘定方勤番は十数年におよんだが、身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った。そのため息子である諭吉はのちに「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」(『福翁自伝』)とすら述べており、自身も封建制度には疑問を感じていた。兄・三之助は父に似た純粋な漢学者で、「死に至るまで孝悌忠信」の一言であったという。

なお、母兄姉と一緒に暮らしてはいたが、幼時から叔父・中村術平の養子になり中村姓を名乗っていた。のち、福澤家に復する。体格がよく、当時の日本人としてはかなり大柄な人物である(明治14年(1881年)7月当時、身長は173cm、体重は70.25kg、肺活量は5.159?[8])。

天保6年(1836年)、父の死去により中村栗園に見送られながら大坂から帰藩し、中津(現:大分県中津市)で過ごす。親兄弟や当時の一般的な武家の子弟と異なり、孝悌忠信や神仏を敬うという価値観はもっていなかった。お札を踏んでも祟りが起こらない事を確かめてみたり、神社で悪戯をしてみたりと、悪童まがいのはつらつとした子供だったようだが、刀剣細工や畳の表がえ、障子のはりかえをこなすなど内職に長けた子供であった。

5歳ごろから藩士・服部五郎兵衛に漢学一刀流の手解きを受け始める。初めは読書嫌いであったが、14、5歳になってから近所で自分だけ勉強をしないというのも世間体が悪いということで勉学を始める。しかし始めてみるとすぐに実力をつけ、以後さまざまな漢書を読み漁り、漢籍を修める。18歳になると、兄・三之助も師事した野本真城、白石照山の塾・晩香堂へ通い始める。『論語』『孟子』『詩経』『書経』はもちろん、『史記』『左伝』『老子』『荘子』におよび、特に『左伝』は得意で15巻を11度も読み返して面白いところは暗記したという。このころには先輩を凌いで「漢学者の前座ぐらい(自伝)」は勤まるようになっていた。また学問のかたわら立身新流居合術を習得した。

福澤の学問的・思想的源流に当たるのは荻生徂徠であり、諭吉の師・白石照山は陽明学朱子学も修めていたので諭吉の学問の基本には儒学が根ざしており、その学統は白石照山・野本百厳・帆足万里を経て、祖父・兵左衛門も門を叩いた三浦梅園にまでさかのぼることができる。のちに蘭学の道を経て思想家となる過程にも、この学統が原点にある。長崎光永寺(大正)、手彩色絵葉書

安政元年(1854年)、諭吉は兄の勧めで19歳で長崎へ遊学して蘭学を学ぶ(嘉永7年2月)。長崎市の光永寺に寄宿し、現在は石碑が残されている。黒船来航により砲術の需要が高まり、「オランダ流砲術を学ぶにはオランダ語の原典を読まなければならないが、それを読んでみる気はないか」と兄から誘われたのがきっかけであった。長崎奉行配下の役人で砲術家の山本物次郎宅に居候し、オランダ通詞(通訳などを仕事とする長崎の役人)の元へ通ってオランダ語を学んだ。山本家には蛮社の獄の際に高島秋帆から没収した砲術関係の書物が保管所蔵されていた。山本はそうした砲術関係の書籍を人に貸したり写させたりして謝金をもらっており、諭吉も閲読を許されて鉄砲の設計図を引くことさえできるようになった。山本家の客の中に、薩摩藩の松崎鼎甫がおり、アルファベットを教えてもらう。その時分の諸藩の西洋家、たとえば村田蔵六(のちの大村益次郎)・本島藤太夫・菊池富太郎らが来て、「出島のオランダ屋敷に行ってみたい」とか、「大砲を鋳るから図をみせてくれ」とか、そんな世話をするのが山本家の仕事であり、その実はみな諭吉の仕事であった。中でも、菊池富太郎は黒船に乗船することを許された人物で、諭吉はこの長崎滞在時にかなり多くの知識を得ることができた。そのかたわら石川桜所の下で暇を見つけては教えを受けたり、縁を頼りに勉学を続けた。
適塾時代(大坂)大阪市福島区の福澤諭吉生誕の地記念碑

安政2年(1855年)、諭吉はその山本家を紹介した奥平壱岐や、その実家である奥平家(中津藩家老の家柄)と不和になり、中津へ戻るようにとの知らせが届く。しかし諭吉本人は前年に中津を出立したときから中津へ戻るつもりなど毛頭なく、大坂を経て江戸へ出る計画を強行する。大坂へ到着すると、かつての父と同じく中津藩蔵屋敷に務めていた兄を訪ねる。すると兄から「江戸へは行くな」と引き止められ、大坂で蘭学を学ぶよう説得される。そこで諭吉は大坂の中津藩蔵屋敷に居候しながら、当時「過所町の先生」と呼ばれ、他を圧倒していた足守藩下士で蘭学者緒方洪庵の「適塾」で学ぶこととなった(旧暦3月9日(4月25日))。

その後、諭吉が腸チフスを患うと、洪庵から「乃公はお前の病気を屹と診てやる。診てやるけれども、乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うてしまう。この薬あの薬と迷うて、あとになってそうでもなかったと言ってまた薬の加減をするというような訳けで、しまいには何の療治をしたか訳けが分からぬようになるというのは人情の免れぬことであるから、病は診てやるが執匙は外の医者に頼む。そのつもりにして居れ」(自伝)と告げられ、洪庵の朋友、内藤数馬から処置を施され、体力が回復する。そして。一時中津へ帰国する。

安政3年(1856年)、諭吉は再び大坂へ出て学ぶ。


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