福澤諭吉
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また、船上での福澤諭吉と勝海舟の間柄はあまり仲がよくなかった様子で、晩年まで険悪な関係が続いた[注釈 7]

一方、福澤諭吉と木村摂津守はとても親しい間柄で、この両者は明治維新によって木村が役職を退いたあとも晩年に至るまで親密な関係が続いた。諭吉は帰国した年に、木村の推薦で中津藩に籍を置いたまま「幕府外国方」(現:外務省)に採用されることになった。その他、戊辰戦争後に、芝・新銭座の有馬家中津屋敷に慶應義塾の土地を用意したのも木村である。

アメリカでは、科学分野に関しては書物によって既知の事柄も多かったが、文化の違いに関しては諭吉はさまざまに衝撃を受けた、という。たとえば、日本では徳川家康など君主の子孫がどうなったかを知らない者などいないのに対して、アメリカ国民が初代大統領ジョージ・ワシントンの子孫が現在どうしているかということをほとんど知らないということについて不思議に思ったことなどを書き残している(ちなみに、ワシントンに直系の子孫はいない。当該項参照)。

諭吉は、通訳として随行していた中浜万次郎(ジョン万次郎)とともに『ウェブスター大辞書』の省略版を購入し、日本へ持ち帰って研究の助けとした。また、翻訳途中だった『万国政表』(統計表)は、諭吉の留守中に門下生が完成させていた。

アメリカで購入した広東語・英語対訳の単語集である『華英通語』の英語を諭吉はカタカナで読みをつけ、広東語の漢字の横には日本語の訳語を付記した『増訂華英通語』を出版した。これは諭吉が初めて出版した書物である。この書物の中で諭吉は、「v」の発音を表すため「ウ」に濁点をつけた文字「」や「ワ」に濁点をつけた文字「?」を用いているが、以後前者の表記は日本において一般的なものとなった。そして、諭吉は、再び鉄砲洲で新たな講義を行う。その内容は従来のようなオランダ語ではなくもっぱら英語であり、蘭学塾から英学塾へと教育方針を転換した。

その後、福澤諭吉は、「幕府外国方、御書翰掛、翻訳方」に採用されて、公文書の翻訳を行うようになった。これは外国から日本に対する公文書にはオランダ語の翻訳を附することが慣例となっていたためである。諭吉はこの仕事をすることにより、英語とオランダ語を対照することができ、これで自身の英語力を磨いた。このころの諭吉は、かなり英語も読めるようになっていたが、まだまだ意味の取りづらい部分もあり、オランダ語訳を参照することもあったようである。また、米国公使館通訳ヒュースケンの暗殺事件や水戸浪士による英国公使館襲撃事件など、多くの外交文書の翻訳も携わり、緊迫した国際情勢を身近に感じるようになったという。
渡欧(幕臣時代)

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文久2年(1862年江戸幕府使節としてヨーロッパ歴訪の際ベルリンにて。文久2年(1862年)オランダにて。右から柴田貞太郎、福澤諭吉、太田源三郎、福田作太郎

文久元年(1861年)、福澤諭吉は中津藩士、土岐太郎八の次女・お錦と結婚した。同年12月、幕府は竹内保徳を正使とする幕府使節団(文久遣欧使節)を結成し、欧州各国へ派遣することにした。諭吉も「翻訳方」のメンバーとしてこの幕府使節団に加わり同行することになった。この時の同行者には他に、松木弘安、箕作秋坪、などがいて、総勢40人ほどの使節団であった。

文久元年(1861年)12月23日、幕府使節団は英艦「オーディン号(英語版)」に乗って品川を出港した。

12月29日、長崎に寄港し、そこで石炭などを補給した。文久二年(1862年)1月1日、長崎を出港し、1月6日、香港に寄港した。幕府使節団はここで6日間ほど滞在するが、香港で植民地主義帝国主義が吹き荒れているのを目の当たりにし、イギリス人中国人同然に扱うことに強い衝撃を受けた。

1月12日、香港を出港し、シンガポールを経てインド洋紅海を渡り、2月22日にスエズに到着した。ここから幕府使節団は陸路を汽車で移動し、スエズ地峡を超えて、北のカイロに向かった。カイロに到着するとまた別の汽車に乗ってアレキサンドリアに向かった。アレキサンドリアに到着すると、英国船の「ヒマラヤ号」に乗って地中海を渡り、マルタ島経由でフランスマルセイユに3月5日に到着した。そこから、リヨンに行って、3月9日、パリに到着した。ここで幕府使節団は「オテル・デュ・ルーブル」というホテルに宿泊し、パリ市内の病院、医学校、博物館、公共施設などを見学した。(滞在期間は20日ほど)

文久2年(1862年)4月2日、幕府使節団はドーバー海峡を越えてイギリスロンドンに入った。ここでも幕府使節団はロンドン市内の駅、病院、協会、学校など多くの公共施設を見学する。万国博覧会にも行って、そこで蒸気機関車電気機器植字機に触れる。ロンドンの次はオランダユトレヒトを訪問する。そこでも町の様子を見学するが、その時、偶然にもドイツ系写真家によって撮影されたと見られる幕府使節団の写真4点が、ユトレヒトの貨幣博物館に所蔵されていた記念アルバムから発見された[12]。その後、幕府使節団は、プロイセンに行き、その次はロシアに行く。ロシアでは樺太国境問題を討議するためにペテルブルクを訪問するが、そこで幕府使節団は、陸軍病院で尿路結石の外科手術を見学した。

その後、幕府使節団はまたフランスのパリに戻り、そして、最後の訪問国のポルトガルリスボンに文久2年(1862年)8月23日、到着した。

以上、ヨーロッパ6か国の歴訪の長旅で幕府使節団は、幕府から支給された支度金400両で英書・物理書・地理書をたくさん買い込み、日本へ持ち帰った。また、福澤諭吉は今回の長旅を通じて、自分の目で実際に目撃したことを、ヨーロッパ人にとっては普通であっても日本人にとっては未知の事柄である日常について細かく記録した。たとえば、病院や銀行郵便法徴兵令選挙制度・議会制度などについてである。それを『西洋事情』、『西航記』にまとめた。

また、諭吉は今回の旅で日本語をうまく話せる現地のフランスの青年レオン・ド・ロニー(のちのパリ東洋語学校日本語学科初代教授)と知り合い、友好を結んだ。そして、諭吉はレオンの推薦で「アメリカおよび東洋民族誌学会」の正会員となった。(この時、諭吉はその学会に自分の顔写真をとられている。)

文久2年(1862年)9月3日、幕府使節団は、日本に向けてリスボンを出港し、文久2年(1862年)12月11日、日本の品川沖に無事に到着・帰国した。

ところが、その時の日本は幕府使節団が予想もしていない状況に一変していた。

品川に到着した翌日の12月12日に、「英国公使館焼き討ち事件」が起こった。文久3年(1863年)3月になると、孝明天皇賀茂両社への攘夷祈願、4月には石清水八幡宮への行幸を受けて、長州藩が下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃する事件が起こった。このように日本は各地で過激な攘夷論を叫ぶ人たちが目立つようになっていた。諭吉の周囲では、同僚の手塚律蔵や東条礼蔵が誰かに切られそうになるという事件も起こっていた。この時、諭吉は身の安全を守る為、夜は外出しないようにしていたが、同僚の旗本・藤沢志摩守の家で会合したあとに帰宅する途中、浪人と鉢合わせになり、居合で切り抜けなければと考えながら、すれちがいざまに互いに駆け抜けた(逃げた!)こともあった。(この文久2年ごろ?明治6年ごろまでが江戸が一番危険で、物騒な世の中であったと諭吉はのちに回想している。)

文久3年(1863年)7月、薩英戦争が起こったことにより、福澤諭吉は幕府の仕事が忙しくなり、外国奉行松平康英の屋敷に赴き、外交文書を徹夜で翻訳にあたった。その後、翻訳活動を進めていき、「蒸気船」→「汽船」のように三文字の単語を二文字で翻訳し始めたり、「コピーライト」→「版権」、「ポスト・オフィス」→「飛脚場」、「ブック・キーピング」→「帳合」、「インシュアランス」→「請合」などを考案していった[注釈 8]。また、禁門の変が起こると長州藩追討の朝命が下って、中津藩にも出兵が命じられたがこれを拒否し、代わりに、以前より親交のあった仙台藩大童信太夫を通じて、同年秋ごろに塾で諭吉に師事していた横尾東作を派遣して新聞『ジャパン=ヘラルド』を翻訳し、諸藩の援助をした。

元治元年(1864年)には、諭吉は郷里である中津に赴き、小幡篤次郎三輪光五郎ら6名を連れてきた。同年10月には外国奉行支配調役次席翻訳御用として出仕し、臨時の「御雇い」ではなく幕府直参として150俵・15両を受けて御目見以上となり、「御旗本」となった[13][14]


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