福澤諭吉
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慶應義塾大学をはじめとする学校法人慶應義塾の運営する学校では、創立者の諭吉のみを「福澤先生」と呼ぶ伝統があり、ほかは教員も学生も公式には「○○君」と表記される[注釈 10]

批判的だった『日の出新聞』からは「法螺を福沢、嘘を諭吉」とまで謗られた(明治15年8月11日付)[108]

1884年に『時事新報』で論じていた徴兵に関する見解をまとめた『全国徴兵論』を刊行した。同書の中で諭吉は、1883年の徴兵令改正を平等連帯の主義を推し進める「政府の美挙なり」と賛辞を贈った上で、徴兵は苦役であり逃れたいと思うのは当然の人情だが、一部の人のみがそれに当たるのは同国同胞の徳義において忍びない、徴兵逃れをせず平等に義務に服することが「我輩の願ってやまないところ」と述べた[109]。しかし、次男捨次郎の徴兵の際には「独りヲネストにあるも馬鹿らし」いと徴兵逃れを画策し、まんまと成功している[109]

演説の最中に始終両腕を組む癖があった。三田演説館の演壇に掲げられている福澤諭吉演説像(和田英作原画、松村菊麿模写)はその様子を再現したものである。

エピソード

適塾時代のエピソードには「解剖」「の頭を貰ってきて、解剖的に脳だの眼だのよくよく調べて、散々いじくった跡を煮て食った話」などが自伝で語られており、ほかにも大坂の町人江戸町人の対比(大坂の町人は極めて臆病だ。江戸で喧嘩をすると野次馬が出て来て滅茶苦茶にしてしまうが、大坂では野次馬はとても出て来ない。夏のことで夕方飯を食ってブラブラ出て行く。申し合せをして市中で大喧嘩の真似をする。お互いに痛くないように大層な剣幕で大きな声で怒鳴って掴み合い打ち合うだろう。そうすると、その辺の店はバタバタ片付けて戸を締めてしもうて寂りとなる。)や「の味噌漬と欺して河豚を食わせる」「禁酒から煙草」など自伝には諭吉の人物像を表すエピソードが多数記されている。

幼少のころから酒を好みよく飲んでいたが、この適塾時代にはかなり飲んだとされ、「書生の生活酒の悪弊」「血に交わりて赤くならず」「書生を懲らしめる」(自伝)には、恐ろしく飲んで洪庵夫妻を驚かせる、囲碁の話、茶屋の話などが記されている。塾長になり、金弐朱の収入を受けてからもほとんどを酒の代に使い、銭の乏しいときは酒屋で三合か五合買ってきて塾中で独り飲むということであった。

あるとき酒に酔って素っ裸で塾内をうろついていると緒方夫人とばったり会ってしまった。このときのことをのちに「緒方先生の奥様の前に裸で出てしまった時の恥ずかしさは40年経っても忘れられない」と回想している。これがきっかけで「酒で失敗するのはもう御免だ」と一時的に酒を止め、10日ほどは我慢するが、同期生から「たとえ体に悪いことでも急に止めるのは良くない」と酒の代わりに煙草を薦められる。最初に吸ったときはむせてしまったが、数日で立派なヘビースモーカーとなった。結局酒も止められず、いつしか元の大酒飲みに戻っていたという。

禁酒はできないため節酒する決断をする。第一に朝酒を廃し、次に昼酒を禁じた。晩酌の全廃はとても行われず、次第に量を減らして穏やかになるのに3年もかかった。鯨飲の全盛は30代半ばまでの10年間だったという。

万延元年(1860年)、アメリカから帰国した諭吉は日本への上陸第一歩の海辺で出迎えにきた木村摂津守の家来に、「何か日本に変わったことは無いか」と尋ねた。その家来は顔色を変えて、「イヤあったともあったとも大変なことがあった」という。諭吉はそれをおしとどめて「言うてくれるな、私が当てて見せよう、大変といえば何でもこれは水戸の浪人が掃部様(大老・井伊直弼)の邸に暴れこんだというようなことではないか」(自伝)と、3月3日桜田門外の変を正確に言い当て、家来を驚かせたことがある。もっとも、徳川斉昭の反目や安政の大獄による弾圧などで、このような事態は幕府の有識者の間では前もって分かっていたことだった。

経済文明開化動物園、また演説という表記など、和製漢語を数多く作った。自由も、著書『西洋事情』によって世間に広まった。また「福沢」と「福澤」の表記揺れがあるが、自身は文字之教端書漢字制限を唱えていた。

将棋を愛好しており、森有礼服部金太郎芳川顕正らとともに名人小野五平の後援者であった[110]

研究・評価史
日本における福澤研究をめぐる論争
「脱亜論」再発見から詳細は「脱亜論」および「安川・平山論争」を参照

太平洋戦争大東亜戦争)後、歴史学者の服部之総遠山茂樹らによって諭吉の「脱亜論」が再発見され、「福澤諭吉はアジア諸国を蔑視し、侵略を肯定したアジア蔑視者である」と批判された[111]丸山真男服部之総の諭吉解釈を「論敵」としていたといわれる[112]

平成13年(2001年)、朝日新聞に掲載された安川寿之輔の論説「福沢諭吉 アジア蔑視広めた思想家[113]」に、慶應義塾大学文学部卒の平山洋が反論「福沢諭吉 アジアを蔑視していたか」[114]を掲載したことで、いわゆる「安川・平山論争」が始まった[115]

平山は、井田進也の文献分析を基礎に[116]、諭吉のアジア蔑視を、『福澤諭吉伝』の著者で『時事新報』の主筆を務め、『福澤全集』を編纂した石河幹明の作為にみる[117]。平山によれば、諭吉は支那中国)や朝鮮政府を批判しても、民族そのものをおとしめたことはなかった。しかし、たとえばの兵士をになぞらえた論説など、差別主義的内容のものは石河の論説であり、全集編纂時に諭吉のものと偽って収録したのだという。

根本的にこの問題は、平山自身や都倉武之がいうように、無署名論説の執筆者を文献学(テキストクリティーク)的に確定しないことには決着がつかない[118]。「時事新報論説」執筆者に関する考察については、井田進也「井田メソッド」による執筆者検証も参照[119]

このように福澤肯定の動きは脱亜論と福澤の分離を目指していたが、2000年代になると、東アジアのナショナリズムの高まりによりネット空間を中心に脱亜論が人気を得て[120]、逆の動きが起き始めた。さらに対立の悪化した2010年代になると右派系出版社を中心に脱亜論本が続々と出版され、福澤の肯定的評価は全く別の形で実現された。
「時事新報」無署名論説

平山洋は、井田の分析を基に現行全集の第七巻までは署名入りで公刊された著作であるのに対して、八巻以降の『時事新報論集』はその大部分が無署名であることを指摘した上で、大正時代の『福沢全集』(1925 - 26年)と昭和時代の『続福沢全集』(1933 - 34年)の編纂者であった弟子の石河幹明が『時事新報』から選んだものを、そのまま引き継いで収録しているとした。さらに現行版『全集』(1958 - 64年)の第一六巻には諭吉の没後数か月してから掲載された論説が六編収められていることも指摘している[121]
人気度

2000年(平成12年)3月12日付で朝日新聞により「この1000年・日本の政治リーダー読者人気投票」という特別企画が組まれ、西暦1000年から1999年の間に登場した歴史上の人物の中から、「あなたが一番好きな政治リーダー」を投票してもらう企画で、得票数7,863票のうち、第6位の豊臣秀吉(382票)に次ぐ第7位(330票)にランクインするなど、国民的な人気がある[122]
中国における評価

中国における評価は一般に悪いため慶應出身者からは憤りの声が聞かれる。慶応文学部卒の平山洋は、「中国人による福澤批判の声の大きさに惑わされて、その主張にほとんど多様性がない」と批判した。

彼ら中国の福澤批判者は、彼の思想を実際に読んでいるわけではなく、ごくわずかだけ中国語訳されている、日本の福澤研究論文の骨子を、中国語で叫んでいるだけなのである。彼らが下敷きにしているのは、服部之総遠山茂樹安川寿之輔らの研究である。それ以外の、福澤を「市民的自由主義者」として肯定的に評価する丸山真男らの論文が出発点となることはない。[123]

慶応法学部卒の小川原正道は、「平成22年11月に北京大学で講演し、福澤の文化思想や宗教思想などについて話した際、同大学の著名な教授から「福澤には『脱亜論』以外の側面もあるんですね」と素直に驚かれ、愕然とした」と述べる[124]


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