併(しか)しこの航海に就(つい)ては大(おおい)に日本の為(た)めに誇ることがある、と云(い)うのは抑(そ)も日本の人が始めて蒸気船なるものを見たのは嘉永六年、航海を学び始めたのは安政二年の事で、安政二年に長崎に於(おい)て和蘭(オランダ)人から伝習したのが抑(そもそ)も事の始まりで、その業(ぎよう)成(なつ)て外国に船を乗出(のりだ)そうと云うことを決したのは安政六年の冬、即(すなわ)ち目に蒸気船を見てから足掛(あしか)け七年目、航海術の伝習を始めてから五年目にして、夫(そ)れで万延元年の正月には出帆しようと云うその時、少しも他人の手を藉(か)らずに出掛けて行こうと決断したその勇気と云いその伎倆(ぎりよう)と云い、是(こ)れだけは日本国の名誉として、世界に誇るに足るべき事実だろうと思う[10][11]。
^ 『福翁自伝』に航海中の海舟の様子を揶揄するような記述が見られる。富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、岩波書店〈岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「初めてアメリカに渡る」の章にある「米国人の歓迎祝砲」(112頁)を参照。 ⇒福翁自傳 - 200 ページを参照。
勝麟太郎(かつりんたろう)と云う人は艦長木村の次に居て指揮官であるが、至極(しごく)船に弱い人で、航海中は病人同様、自分の部屋の外に出ることは出来なかった
^ 諭吉は『福沢全集緒言』において以下のように述べている:例(たと) えば英語(えいご) のスチームを従来(じゅうらい) 蒸氣(じょうき) と訳(やく) するの例(れい) なりしかども、何か一文字に縮(ちゞ) めることは叶(かな) うまじきやと思付(おもいつ) き、是(こ) れと目的はなけれども、蔵書(ぞうしょ) の康熙字典(こうきじてん) を持出(もちだ) して唯(たゞ) 無暗(むやみ) に火扁(ひへん) 水扁(みずへん) などの部を捜索(そうさく) する中に、汽(き) と云(い) う字を見て、其(その) 註(ちゅう) に水の氣(き) なりとあり、是(こ) れは面白しと独(ひと) り首肯(しゅこう) して始めて汽(き) の字を用(もち) いたり。但(ただ) し西洋事情(せいようじじょう) の口絵に蒸?済人(じょうきさいじん) 云々(うんぬん) と記(しる) したるは、対句(ついく) の為(た) め蒸(じょう) の一字を加(くわ) えたることなり。今日(こんにち) と為(な) りては世(よ) の中(なか) に?車(きしゃ) と云い?船(きせん) 問屋(どいや) と云い、誠に普通(ふつう) の言葉なれども、其(その) 本(もと) を尋(たず) ぬれば三十二年前、余が盲捜(めくらさが) しに捜(さが) し当(あ) てたるものを即席(そくせき) の頓智(とんち) に任(まか) せて漫(まん) に版本(はんぽん) に上(のぼ) せたるこそ?(き) の字の発端(ほったん) なれ。又当時(とうじ) 、コピライトの意義(いぎ) を含(ふく) みたる文字もなし。官許(かんきょ) と云(い) えば稍(や) や似寄りたれども、其(その) 実(じつ) は政府(せいふ) の忌諱(きい) に触(ふ) れずとの意(い) を示(しめ) すのみにして、江戸の慣例(かんれい) に拠(よ) れば、臭草紙(くさぞうし) の類は町年寄(まちどしより) の権限内(けんげんない) にて取捌(とりさば) き、其(それ) 以上、学者の著述(ちょじつ) は聖堂(せいどう) 、又飜訳書(ほんやくしょ) なれば蕃書調所(ばんしょしらべしょ) と称する政府(せいふ) の洋学校(ようがっこう) にて許可(きょか) するの法にして、著書(ちょしょ) 発行(はっこう) の名誉(めいよ) 権利(けんり) は著者(ちょしゃ) の専有(せんゆう) に帰(き) すと云(い) うが如(ごと) き私有権(しゆうけん) の意味(いみ) を知る者なし。依(よっ) て余は其(その) コピライトの横文字(よこもじ) を直訳(ちょくやく) して版権(はんけん) の新文字(しんもじ) を製造(せいぞう) したり。其他(そのた) 、吾々(われわれ) 友人間(ゆうじんかん) にて作りたる新字も甚(はなは) だ少なからず。名(な) は忘(わす) れたり、或(あ) る学友(がくゆう) が横文(おうぶん) にあるドルラルの記号(きごう) $を見て竪(たて) に似寄(により) りの弗の字を用い、ドルラルと読(よ) ませたるが如き面白(おもしろ) き思付(おもいつき) にして、之(これ) に反(はん) し余がポストヲフヒスを飛脚場(ひきゃくば) 、ポステージを飛脚印(ひきゃくじるし) と訳して郵便(ゆうびん) の郵(ゆう) の字に心付(こゝろづ) かず、ブックキーピングを帳合(ちょうあい) と訳して簿記(ぼき) の字を用いざりしは、余(あま) り俗(ぞく) に過(す) ぎたる故か今日(こんにち) 世(よ) に行わるゝを見(み) ず。 ? 福澤諭吉、『福沢全集緒言』22-24頁
^ 次郎長もこの石碑が建てられた際に来ているが、意味がわからない子分のために漢文の内容を分かりやすく教えている。自己犠牲というアウトローが尊ぶ精神構造と似ていたせいか諭吉と教養面で隔絶した文盲の子分たちは大いに納得していたという。
^ ただし、塾内の掲示物等では教員も君付けだが、塾生や塾員が教員に向かって面と向かって君付けで呼びかけるわけではない。これは、義塾草創期は上級学生が教師役となって下級生を教授していたことの名残といわれている。
^ 1960年代にすでに朝鮮社会科学院歴史研究所が邦題『金玉均の研究』を出版。
^ その典型的な例を挙げれば、2001年の中央日報、各国貨幣に扱われた人物について述べたコラム ⇒【噴水台】ユーロ貨の橋の次のような文言:「日本の1万円札には19世紀末、韓国を征伐するよう主張した福澤諭吉の肖像が入っている。日本では開化思想家として知られているが、韓国の立場からするとけしからん人物だ」
^ 総連系の学者で金玉均の研究家