福澤諭吉
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^ 百助が所持していた伊藤東涯の『易経集注』という書は福澤家に残され、現在は慶應義塾大学に寄託されている。
^ 製薬の事に就(つい)ても奇談がある。或(あ)るとき硫酸(りゆうさん)を造ろうと云うので、様々大骨折(おおぼねおつ)て不完全ながら色の黒い硫酸が出来たから、之(これ)を精製して透明にしなければならぬと云うので、その日は先(ま)ず茶椀に入れて棚の上に上げて置(おい)た処が、鶴田仙庵が自分で之を忘れて、何かの機(はずみ)にその茶椀を棚から落して硫酸を頭から冠(かぶ)り、身体(からだ)に左(さ)までの怪我(けが)はなかったが、丁度(ちようど)旧暦四月のころで一枚の袷(あわせ)をズダ/\にした事がある。 ? 福澤諭吉
^ それまで、中津藩邸に近い木挽町にあった佐久間象山の塾には多くの中津藩士が通っており、象山は中津藩のために西洋式大砲二門を鋳造し上総国姉ヶ崎で試射したりしている。象山に学んだ岡見彦三清熙は江戸藩邸内に蘭学塾を設けていた
^

併(しか)しこの航海に就(つい)ては大(おおい)に日本の為(た)めに誇ることがある、と云(い)うのは抑(そ)も日本の人が始めて蒸気船なるものを見たのは嘉永六年、航海を学び始めたのは安政二年の事で、安政二年に長崎に於(おい)て和蘭(オランダ)人から伝習したのが抑(そもそ)も事の始まりで、その業(ぎよう)成(なつ)て外国に船を乗出(のりだ)そうと云うことを決したのは安政六年の冬、即(すなわ)ち目に蒸気船を見てから足掛(あしか)け七年目、航海術の伝習を始めてから五年目にして、夫(そ)れで万延元年の正月には出帆しようと云うその時、少しも他人の手を藉(か)らずに出掛けて行こうと決断したその勇気と云いその伎倆(ぎりよう)と云い、是(こ)れだけは日本国の名誉として、世界に誇るに足るべき事実だろうと思う[10][11]
^福翁自伝』に航海中の海舟の様子を揶揄するような記述が見られる。富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、岩波書店岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「初めてアメリカに渡る」の章にある「米国人の歓迎祝砲」(112頁)を参照。 ⇒福翁自傳 - 200 ページを参照。

勝麟太郎(かつりんたろう)と云う人は艦長木村の次に居て指揮官であるが、至極(しごく)船に弱い人で、航海中は病人同様、自分の部屋の外に出ることは出来なかった
^ 諭吉は『福沢全集緒言』において以下のように述べている:例(たと) えば英語(えいご) のスチームを従来(じゅうらい) 蒸氣(じょうき) と訳(やく) するの例(れい) なりしかども、何か一文字に縮(ちゞ) めることは叶(かな) うまじきやと思付(おもいつ) き、是(こ) れと目的はなけれども、蔵書(ぞうしょ) の康熙字典(こうきじてん) を持出(もちだ) して唯(たゞ) 無暗(むやみ) に火扁(ひへん) 水扁(みずへん) などの部を捜索(そうさく) する中に、汽(き) と云(い) う字を見て、其(その) 註(ちゅう) に水の氣(き) なりとあり、是(こ) れは面白しと独(ひと) り首肯(しゅこう) して始めて汽(き) の字を用(もち) いたり。但(ただ) し西洋事情(せいようじじょう) の口絵に蒸?済人(じょうきさいじん) 云々(うんぬん) と記(しる) したるは、対句(ついく) の為(た) め蒸(じょう) の一字を加(くわ) えたることなり。今日(こんにち) と為(な) りては世(よ) の中(なか) に?車(きしゃ) と云い?船(きせん) 問屋(どいや) と云い、誠に普通(ふつう) の言葉なれども、其(その) 本(もと) を尋(たず) ぬれば三十二年前、余が盲捜(めくらさが) しに捜(さが) し当(あ) てたるものを即席(そくせき) の頓智(とんち) に任(まか) せて漫(まん) に版本(はんぽん) に上(のぼ) せたるこそ?(き) の字の発端(ほったん) なれ。又当時(とうじ) 、コピライトの意義(いぎ) を含(ふく) みたる文字もなし。官許(かんきょ) と云(い) えば稍(や) や似寄りたれども、其(その) 実(じつ) は政府(せいふ) の忌諱(きい) に触(ふ) れずとの意(い) を示(しめ) すのみにして、江戸の慣例(かんれい) に拠(よ) れば、臭草紙(くさぞうし) の類は町年寄(まちどしより) の権限内(けんげんない) にて取捌(とりさば) き、其(それ) 以上、学者の著述(ちょじつ) は聖堂(せいどう) 、又飜訳書(ほんやくしょ) なれば蕃書調所(ばんしょしらべしょ) と称する政府(せいふ) の洋学校(ようがっこう) にて許可(きょか) するの法にして、著書(ちょしょ) 発行(はっこう) の名誉(めいよ) 権利(けんり) は著者(ちょしゃ) の専有(せんゆう) に帰(き) すと云(い) うが如(ごと) き私有権(しゆうけん) の意味(いみ) を知る者なし。依(よっ) て余は其(その) コピライトの横文字(よこもじ) を直訳(ちょくやく) して版権(はんけん) の新文字(しんもじ) を製造(せいぞう) したり。其他(そのた) 、吾々(われわれ) 友人間(ゆうじんかん) にて作りたる新字も甚(はなは) だ少なからず。名(な) は忘(わす) れたり、或(あ) る学友(がくゆう) が横文(おうぶん) にあるドルラルの記号(きごう) $を見て竪(たて) に似寄(により) りの弗の字を用い、ドルラルと読(よ) ませたるが如き面白(おもしろ) き思付(おもいつき) にして、之(これ) に反(はん) し余がポストヲフヒスを飛脚場(ひきゃくば) 、ポステージを飛脚印(ひきゃくじるし) と訳して郵便(ゆうびん) の郵(ゆう) の字に心付(こゝろづ) かず、ブックキーピングを帳合(ちょうあい) と訳して簿記(ぼき) の字を用いざりしは、余(あま) り俗(ぞく) に過(す) ぎたる故か今日(こんにち) 世(よ) に行わるゝを見(み) ず。 ? 福澤諭吉、『福沢全集緒言』22-24頁
^ 次郎長もこの石碑が建てられた際に来ているが、意味がわからない子分のために漢文の内容を分かりやすく教えている。自己犠牲というアウトローが尊ぶ精神構造と似ていたせいか諭吉と教養面で隔絶した文盲の子分たちは大いに納得していたという。
^ ただし、塾内の掲示物等では教員も君付けだが、塾生や塾員が教員に向かって面と向かって君付けで呼びかけるわけではない。これは、義塾草創期は上級学生が教師役となって下級生を教授していたことの名残といわれている。
^ 1960年代にすでに朝鮮社会科学院歴史研究所が邦題『金玉均の研究』を出版。
^ その典型的な例を挙げれば、2001年中央日報、各国貨幣に扱われた人物について述べたコラム ⇒【噴水台】ユーロ貨の橋の次のような文言:「日本の1万円札には19世紀末、韓国を征伐するよう主張した福澤諭吉の肖像が入っている。日本では開化思想家として知られているが、韓国の立場からするとけしからん人物だ」
^ 総連系の学者で金玉均の研究家

出典^ 日本大百科全書(ニッポニカ)、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、世界大百科事典 第2版「福沢諭吉」
^ 慶應義塾編・発行『慶應義塾百年史 中(前)』、1960、p.507
^余が印章に三十一谷人の五字を刻
^ 北康利『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』講談社、2007年3月。ISBN 978-4-06-213884-0。 (21頁)
^ “オーディオブック 学問のすすめ”. ラジオデイズ. 2021年1月16日閲覧。
^ a b 令和6年(2024年)以降発行分に予定されている紙幣刷新により、渋沢栄一に変更されるまで。
^ 丹羽 1970, p. 273.
^ 明治生命による
^ 中崎 (1996, pp. 56?63)
^ 富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、岩波書店〈岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「初めてアメリカに渡る」の章にある「日本国人の大胆」(111頁)
^ 近代デジタルライブラリー収録『福翁自伝』の「始めて亜米利加に渡る」の章を参照。 ⇒福翁自傳 - 198 ページ
^「福沢諭吉の新たな写真発見 オランダで」話題!‐話のタネニュース:イザ!
^ 勝部真長 PHP研究所 ISBN 4569771882 『勝海舟』 (終章)P333
^福沢:元治元年/1846?外国奉行支配調訳次席翻訳御用
^ 岡田俊裕著 『日本地理学人物事典 [近代編 1] 』 原書房 2013年 14ページ
^ 上田正一, 「上田貞次郎伝」泰文館 1980年, NCID BN01322234
^ 小泉(1966) p.148
^ 小泉(1966) p.149-150
^ a b 小泉(1966) p.152
^ 小泉(1966) p.167


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