福建土楼
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典型的土楼の石の基礎

土楼は、土の地面に2段から3段、石を敷き詰めて舗装したものを基礎として建設される。一番上の段の基盤に丸く排水溝が作られ、雨水が土楼の壁を損ねるのを防ぐ。

ほとんどの場合、土楼の外壁は2つの階層からなる。下の階層は、切り出した石のブロックや、川の玉石と石灰、砂、粘土を混ぜたものを1メートルから2メートル積み上げて造られる。これは、この地域の洪水の水位を考慮した高さである。石の階層の上に、押し固められた土壁が積み重ねられる。粘着性の高いコメを混ぜた土を押し固め、竹の棒で水平方向に補強する、という土壁の建設法に関する最初の記述が、宋代の標準的建築法の本『営造方式』に残されている。屋根瓦をλ型に組んだ技術

壁は中央に向けて建設されることで、自然の重力で壁を支えあうように造られている。この内側に傾斜させる方法は、応県木塔の建設にも見られるものである。土楼の壁の厚みは、『営造方式』にもあるように、高さに従って減少する。土楼の下2階分の壁には狭間もなく、窓は3階から5階だけに開けられる。そのため低階層の部屋は家族の保管庫として使われ、上階層が居室として使われた。屋根は焼成粘土ので放射状に覆われていた。「 λ 」型に組む技術を定期的に使用することで、より大きな円周を外側に生み出すことができる。屋根瓦の大部分は上から下に向かって並べられ、放射状に並べることで生じる隙間には、小さな瓦を「 λ 」型に挟みこむことで補完する。この技術のため、目に見える隙間を作ったり、屋根の上下で瓦の大きさを変えることなしに、瓦を放射状に並べることができる。

軒先の幅は通常2メートルほどあり、雨水を軒から流し出すことで土壁が損傷することを防ぐ。

屋根を支える木製の骨組みのため、中国の伝統的建築では一般的な?櫨をつけることができなかった。



土楼の通路

裕昌楼の家の中の井戸

2階以上にある環状の通路は、水平方向に渡された木製のの上に木の板を載せ、片方の端を土壁に押し込んで造られている。通路は木製の手すりの輪で補強されている。

階段の吹き抜けは、通路の周りに均等に配置されており、通常4ヶ所に設置される。それぞれの階段は、地階から最上階まで通じている。

通常、中庭には2個か3個の共同井戸がある。もっと豪華な土楼の場合は、屋内井戸を、各住居内の地階の台所に準備している。
対等な共同生活のための住宅

世界の住宅は社会の階層を反映するが、福建の土楼は、対等な共同生活を送るモデル住居として、独特の特徴を持つ。すべての部屋は同じサイズ、同じ材料等級、同じ内装、同じ窓や同じドアで造られており、「ペントハウス」もなければ「高階層」もない。小さな家族は、地階から最上階の「ペントハウス」まで垂直区分で所有する一方、大きな家族は、2つか3つの垂直区分を所有する。

土楼は通常、1つの家の一族郎党が数世代で占有する。大きめの土楼は1つ以上の家党で住まう。建物そのものの他、井戸や祖廟、風呂、洗面所、武器庫といった多くの施設は、共有資産である。周囲の土地や農地、果樹園等でさえ共有された。土楼の居住者は、共同で耕作した。この習慣は、人民公社時代の1960年代にまで及ぶ。当時、土楼はしばしば、1つの共同生産チームで占拠されていた。小家族の各々は、それぞれの私有資産を保持し、ドアを閉じれば、すべての家族ごとに私的自由を楽しむことができた。

昔は、住居の割り当ては、家族の男性親族の人数に基づいていた。すべての息子が分家を開いた。祭祀の組織のような公務、共有エリアの掃除、大門の開閉、その他は、それぞれの親族が輪番制で行っていた。

すべての親族が1つの屋根を共有することは、一族の統一と保護を象徴した。すべての住居が中央の祖廟に面することは、祖先崇拝と一族の団結を象徴した。一族が大きくなると、土楼を同心円状に建て増ししたり、すぐ近くに土楼を建て増しして土楼群を造ったりした。こうして、一族はすぐそばにとどまり続ける。

今日では、新しくてより現代的な施設の備わった住宅が、中国の地方にも建設されている。多くの居住者がより現代的な家を購入して土楼を出て行き、あるいはより大きな街に出てより良い仕事を得ようとしている。しかし彼らはまた、先祖伝来の土楼には鍵をかけ、祭祀の時などだけ土楼に戻ってきて、離散した一族が再会する。
防衛拠点としての効果土楼の王、承啓楼

12世紀から19世紀にかけて、武装した盗賊団が中国南部を跳梁した。福建省南部の人々は最初、防御の砦を山頂に建設した。こういった初期の砦が、のちに福建土楼へと進化した。

低部では2メートル、上へ行くほど細くなって1メートル、という厚みの土楼の外壁は、矢や銃撃にも耐えることができた。1から2メートルの厚みがある土楼外壁の低部は、しばしば花崗岩の角材や大きな玉石で造られた。花崗岩や玉石で造られた区画は掘削にも耐えることから、外観を目地仕上げにし、故意に外に配置した。そういった玉石を掘り出すことは、どのような攻撃者にも不可能なことであった。 玉石の区画は地下1メートル以上の深さにも広がっていたので、壁の下にトンネルを掘ることも不可能であった。

土壁部分は、石灰、砂、粘土を混ぜたものと押し固めた土とで造られ、水平に渡した割竹によって、横方向が補強された。これにより堅固な城となり、砲火にさえ耐えることができた。1934年永定県で、反乱農民の一団が土楼を占拠して、軍の横暴に抵抗しようとした。軍は土楼に大砲を19発撃ちこんだが、外壁には小さなへこみができただけだった[7]花崗岩の門と台枠

壁で囲んで防御する場合、通常は門が弱点となる。しかし福建土楼の門は、防御のため特別な設計となっている。門の枠は、花崗岩の大きな角材で造られている。両開きの扉は、耐火性の固い木の板(厚み13センチ)で造られ、分厚い鉄製装甲板で補強された。大門の扉を閉ざす時には、水平・垂直方向ともに、頑丈な木の杭を数本、花崗岩に開けられた穴に差し込む仕組みになっていた。前の扉を破壊しようと敵が火を使う場合に備え、門の上には、敵のつけた火を消すための水槽が設置されていた。

福建土楼の居住者は、積極的防御には銃を使った。建物の最上階にある狭間から、銃撃した。福建土楼のいくつかは、内壁に沿って丸く通路が設置されており、武装した人々や弾薬の移動に便利であった。



承啓楼の狭間(銃窓)

敵に備えた銃


研究歩雲楼大門

「土楼」の語が初めて登場したのは1573年、王朝の?州府の記録である。盗賊の跳梁により多くの村々は、城壁に囲まれた砦や土楼を築いて、防御の手段としたと記録されている。多数の家族が団結して砦にこもり、いくつかの砦や土楼は手を取り合って絶えず歩哨を出し、警備警戒を怠らなかった。音の大きな太鼓銅鑼を警報とし、盗賊や侵入者の接近を知らせた。土楼の居住者の団結力は非常に強かったので、何万もの人数になる強大な盗賊団でさえ、あえて土楼の住民を襲撃するようなことはしなかった。

「土楼」の語はまた、いくつかの詩句の中にも見られる。それ以外では、土楼の存在は文献の主流にはなり得ず、1956年に民俗学の研究向けに発表されるまでは、文学の中で触れられることもなかった。1956年、学者として初めて福建土楼の研究に取り組み、論文福建省永定県客家の住居』を『南京ポリテック研究所ジャーナル』に発表したのは Liu Guo-zhen 教授であった。

1980年、承啓楼が『古代中国建築の歴史』と題された本に掲載される。これをきっかけに土楼は世界に知られ、中国本土台湾日本ヨーロッパアメリカの学者が福建の?州市永定県を調査、土楼研究に取り組んだ。

特に、中国の黄漢民( Huang Han-min 、現在は福建省設計院の所長)は、20年以上を福建土楼の研究に費やした。修士学位論文『 The Tradition Characteristics and Regional Style of Fujian Civilian Residence 』は1982年に書かれ、中国の雑誌『建築』で発表された。東京芸術大学教授の茂木計一郎が出版した報告書『中国民居の研究 ― 方形土楼と円形土楼』は、1989年に出版され、日本で写真展も開催された。

1997年、オランダの建築家ヘルマン・ヘルツベルガー Herman Hertzberger は福建土楼に触発され、1999年にゲティー保護管理研究所のネヴィル・アグニュー Neville Agnew 博士は、田螺坑土楼群、裕昌楼、和貴楼を調べた[8]

黄漢民の著作『福建土楼』は1994年に台湾で出版され、2003年には修正を加えて中国本土で再発行された。この本は、現在も福建土楼研究の名著であり、土楼の歴史、その特徴と様式、分布図、土楼に関する民間伝承など、数百ものカラー図版や挿絵が掲載されている。しかし福建土楼について書かれた英語文章はいまだ出版されていない。
輸送

福建土楼は、福建省の南東地域の山中に点在しており、曲がりくねった山道で竜岩市?州市に接続している。二つの町は、廈門市福州市と、高速道路でつながっている。これらの町から路線バスで、廈門市福州市までは、それぞれ約4時間かかる。
脚注[脚注の使い方]^ a b “Fujian Tulou” (英語). UNESCO World Heritage Centre. 2023年5月5日閲覧。
^ "as exceptional examples of a building tradition and function exemplifying a particular type of communal living and defensive organization, and, in terms of their harmonious relationship with their environment".
^ “福建省土楼(永定・南靖)旅游”. www.mct.gov.cn. 中華人民共和国文化観光部 (2021年7月22日). 2023年2月2日閲覧。
^ "A large multi storey building in southeast Fujian mountainous region for large community living and defense, built with weight bearing rammed earth wall and wood frame structure." 黄漢民『福建土楼』, chapter 3, Definition of Fujian Tulou Concept
^ 黄漢民『福建土楼』 chapter 5, most peculiar tulou in Fujian (in Chinese) ISBN 7-108-01814-4
^ 黄漢民の本が2003年に出版されたとき、内側の土楼はまだ無事であった。2007年の写真では、分解された内側の土楼の基盤がはっきりとわかる。
^ 黄漢民 p162
^ Xiamen Daily December 2nd, 1999

関連項目.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、福建土楼に関連するカテゴリがあります。


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