2003年には福島潟放水路が開通。2019年現在では、福島潟河川改修事業が進められている[10][11]。同事業は2016年の土木学会デザイン賞において奨励賞を受賞している[12]。
年表
1731年、阿賀野川の水を排水するために前年に設けられた松ヶ崎掘割が洪水で決壊し、阿賀野川の本流となった。そのため、福島潟の水位が下がる[6]。
1934年、新井郷川は北蒲原郡濁川村(現同区濁川地区)で阿賀野川に合流していたが、北側の松ヶ崎浜村(現同区松浜地区)から直接日本海へ注ぐ「新井郷川分水路」が開通して流量が増加し、福島潟の水位が低下した。
1965年 - 地元の要望を受ける形で434haの福島潟のうち168haを水田にすることを決定。
1972年 - 干拓地配分に向けた公募を実施。227戸への配分が決定。コメの生産調整が終わる1975年までは水田を認めず畑作に限るとされたが、生産調整は1975年以降も残り、減反を進める国と水稲栽培を進めたい農家の間で対立が生じた[13]。
1975年9月 - 国営による干拓工事が進み、ほぼ現在の形となる。国営干拓事業では当初、福島潟を全て干拓する予定だったが、工事が始まってから二度の水害に襲われた際に福島潟の治水機能が見直されたために半分程度残したといわれる。
1976年 - 国は干拓工事が終了していないとして、1976年以降も水田化を認めず畑作のみを認めた。これに反発した農家が同年4月に水田化に向けて一斉に耕起を始めたが、国は干拓地への立ち入りを認めないことを求める仮処分を申請。同年4月28日、新潟地方裁判所新発田支部は国の仮処分申請を認めた[14]。農民側は干拓地へ侵入して田植えを始め、国側が水稲の強制撤去を通告する泥仕合が続いたが、同年9月3日、県社会党議員団と新潟県知事の会談の中で、強制撤去前に「収穫」することで合意。9月4日中に刈り取りが行われた[15]。
周辺施設 - 1997年4月オープン[17]。
菱風荘 - 2000年秋オープンの宿泊施設[18]。
新潟県立環境と人間のふれあい館
福島潟キャンプ場
アクセス
JR白新線豊栄駅から徒歩30分(同駅で無料レンタサイクル貸出あり[19])
かつては菜の花が見頃を迎えるゴールデンウィークの時期に豊栄駅南口からシャトルバス「クイクイ号」が運行されていた。
脚注^ ⇒福島潟の歴史 - 水の公園 福島潟.2019年1月19日閲覧。
^ “福島潟 - 新潟県観光協会”. 新潟県観光協会. 2023年2月22日閲覧。
^ “「福島潟」について|新潟北土地改良区”. 2023年2月22日閲覧。
^ 日本の自然100選 - 公益財団法人 森林文化協会.2019年1月18日閲覧。
^ ⇒にいがた景勝100選 - 日本百選 都道府県別データベース.2019年1月18日閲覧。
^ a b 北区のお宝ものがたり 3.河川改修と福島潟開発 (PDF) - 新潟市北区.2019年1月19日閲覧。
^ ⇒リーフレット:新田開発のあゆみ(排水編) 8. 福島潟干拓のあゆみ - 新潟県 新発田地域振興局農村整備部.2019年1月18日閲覧。
^ 福島潟の干拓 - 新潟市北区.2019年1月18日閲覧。
^ ⇒広報とよさか 2003年1月15日 No.513 pp.20-21 (PDF) - 豊栄市
^ ⇒福島潟河川改修事業パンフレット - 新潟県 土木部河川整備課.2019年1月18日閲覧。
^ ⇒【新発田】福島潟広域河川改修事業(大規模) - 新潟県 新発田地域振興局地域整備部.2019年1月18日閲覧。
^ ⇒土木学会デザイン賞:選考結果について - 土木学会景観・デザイン委員会.2019年1月18日閲覧。
^ 農民200人、クワ入れ強行 新潟の干拓地 国に反対、一斉米作り『朝日新聞』1976年(昭和51年)4月9日夕刊、3版、10面
^ 福島潟立入禁止に 新潟地裁新発田支部 国の申請が通る『朝日新聞』1976年(昭和51年)4月30日夕刊、3版、11面