福岡空港
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^ a b c d e f g 福岡空港に有事の“密命” 敷地内の「米軍基地」 その実態は…普段は搭乗口 軍事作戦拠点にも 西日本新聞 2018年05月14日06時00分 (更新 05月14日 14時29分)
^ a b c 福岡国際空港株式会社 (2020年3月23日). “福岡空港(奈多地区)の運用開始について”. 2020年4月20日閲覧。
^ “平成29年度(年度)空港別順位表” (EXCEL). 国土交通省航空局 (2019年3月29日). 2019年7月14日閲覧。
^ “航空輸送統計年報の概要 令和 4 年度(2022 年度)分”. 2023年9月26日閲覧。
^ 秦 源治 (著), 劉 建輝 (著), 仲 万美子 (著) (2018-3-27). 大連ところどころ(画像でたどる帝国のフロンティア). 晃洋書房 
^ 日本無線史 第二巻、電波監理委員会編、電波監理委員会発行、1951
^ a b 航空年鑑、昭和30年版、日本航空協会、1955、P215、航空無線標識署一覧
^ a b 「軍事基地の実態と分析」、基地問題調査委員会 編、三一書房、1954、P103、二 軍事基地のの実情とこれに対する農民の闘い、C 板付基地
^ a b「福岡空港の変遷」, 国土交通省 九州地方整備局 博多港湾・空港整備事務所
^ 「水野高明先生と語る」, ニュース担当グループ委員会[他], 土質工学会, 1980-06-25, 水野先生は九州大学名誉教授。「福岡の板付飛行場は,初め席田飛行場と呼ばれ,戦争の終り頃に陸軍の手によって急造されたもので,市民,学生等も多数勤労動員されて,作業に従事しました。その頃はセメントに不自由していましたので,火山灰を混入して,厚さ10cm程度の滑走路を造りましたが,以前の田面で排水も悪く,できばえはお粗末なものでした。もっとも陸軍にはすでに赤トンボと称された小型の複葉機しか残っていなかったので,その発着には不自由しなかったようですがね。ところが終戦後1週間ほど経った昭和20年8月20目過ぎに米軍の大型飛行機が着陸して,滑走路にめり込んでしまいました。大学の私の研究室にピストルと自動小銃に身を固めた米軍の少佐と軍曹とが突然やってきて,その原因を調査せよといっていきなリジープに乗せられて現揚に連れて行かれました。先方も初めての進駐で相当緊張していた様子でしたが,話しているうちにすぐ親しくなりました。原因は,私としては米軍の飛行機が重すぎると答えるより仕方がなかったのですが,それから毎目教室の助手,工員等数名とジープで迎えられて,地盤の貫入試験をやらされました。そのうちに山土を敷いて転圧する工事が始まると,確か30インチ位の大型平板載荷試験を行い,厳重な管理を実行するのに感嘆しました。」
^ a b c d e f g 日本航空史 (下) / 毎日新聞社 / 1983年4月30日発行 / 巻末年表から。
^ 「航空無線」、電波時報、1954/06、P88、山岡杉雄、運輸省航空局無線課長、「20年10月21日通信統制の件と称する連合軍最高司令部の覚書きが発せられ、航空無線援助業務復活の第一歩を踏み出すこととなった。」、「覚書きの内容は「航空援助のため札幌、鹿児島、東京および大阪における4象限式航空路標識施設を直ちに作動するように命令する」という意味のもので、同年11月21日は、名古屋、福岡および天草の4コース・レンジ開設が指令された。」
^ a b 「電波時報」、郵政省電波監理局 編、電波振興会発行、1952/6「東京から福岡まで電波にたぐられて飛ぶ航空機」、山岡杉雄(航空庁無線課長)当時ティア・ドロップ方式のアプローチによる目視進入コースとGCAによる精密進入方式が設定されていた。「レインヂを利用して降下する方法(福岡)レインヂ上空に4500フィードの高度で飛来し、マーカー受信機でレインヂの上空通過を確認した後直ちに左旋回を行って南コースの方向(185度)へ漸次降下しながら飛行を続け10マイルだけ飛行した地点で高度2500フィートまで降下する。ここで右45度旋回を行い、すなわち230度の方向に向かって水平飛行をし、1分間飛行の後180度(左)旋回を行い、すなわち50度の方向に飛行し、レインヂのコース上まで戻ってくる。ここで左45度旋回してコースにそって5度の方向に進む。そしてこの間漸次高度を下げて再びレインヂの直上に繰るまでに高度を2000フィートとする。レインヂ直上通過後左旋回して335度の方向すなわち海上の高校に飛行しつつ最低1025フィートまで高度を下げてこの間に雲下に出る。あとは地上を見ながら板付飛行場に着陸する。もし1025フィートまで高度を下げても雲下にでない場合には180度旋回を行ってレインヂの方向へ高度を上げつつ飛行士、レインヂの上空まで3500フィートの高度を取り管制塔と連絡をとりその指令を待つ。」「GCA地上設備による降下および着陸方式レインヂの上空に3500フィートの高度で飛行して来る。北コースに沿うて5度の方向に降下しつつ飛行する。GCAのPPI指示器上にこの同行がみえるので、GCAから無線電話により正しい高校に飛行しているかどうか通報する。高度1500フィートに下げたならば左旋回を行って230度の方向に向かう。そしてこの高度と方向を保ちつつ、飛行をつづける。GCAのPPI上にはこの同校がよくあらわれている。丁度板付の滑走路の延長線上に来た場合GCAからその旨通知する。飛行機は直ちに155度左旋回してこの方向に進む。この点は滑走路の終端から約8哩の地点でしかも滑走路の延長線上であるのでGCAのPAR (Precision Approach Radar) の上に飛行機の像があらわれる。そこで飛行機はGCAとたえず連絡をとりながら方向および下降の割合を修正しながら下降をつづけて雲下に出て着陸する。」
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af 福岡市 (1978/3). 福岡市史. 第8巻 (昭和編 後編 4) 第二章 板付基地/p543 
^ a b c d e f 「福岡空港の概要」, 国土交通省大阪航空局福岡空港事務所発行, 2004年4月, P4. 「沿革」
^ 51st Fighter Wing ( ⇒http://www.osan.af.mil/About-Us/Fact-Sheets/Display/Article/404669/51st-fighter-wing/), "Moved from Naha AB to Itazuke AB, Japan, on Sept. 22 1950 with two F-80C combat squadrons and support element for combat operations over Korea", "51st FIW redeployed to Itazuke AB in December 1950"
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 「板付基地問題資料集 下」, 板付基地移転促進協議会刊, 1967, P12
^ a b 「知性」、知性社、1956-01、機翼に砕ける農婦 - 福岡 板付航空基地、楢崎彌之祐 (楢崎弥之助)

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