福岡県立修猷館高等学校
校舎南門側
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度35分02秒 東経130度21分24秒 / 北緯33.58389度 東経130.35667度 / 33.58389; 130.35667
福岡県立修猷館高等学校(ふくおかけんりつしゅうゆうかんこうとうがっこう、英: Fukuoka Prefectural Shuyukan High School)は、福岡県福岡市早良区西新六丁目にある公立高等学校。略称は「修猷館(しゅうゆうかん)」、「修猷(しゅうゆう)」。1784年(天明4年)開館の福岡藩藩校・甘棠館(西学問稽古所)、同修猷館(東学問稽古所)に起源を持つ伝統校[2]。 かつては定時制と通信制も存在した[3]が、現在は全日制普通科のみ。募集定員は11クラス440名。教室設備の都合上、3年に一度は定員を10クラス400名とし、全校で32クラス計1280名の生徒が通う[4]。 2年次から文系・理系のクラスに分かれる[4]。文系・理系普通クラスのほかに、文系・理系英数クラス(通称英数)、医学部進学クラス(通称医進)が設置されている。文系英数クラスには東大・京大・一橋大を、理系英数クラスには東大・京大を志望する生徒が在籍する。 かつては補習科(浪人生を対象として普通科の高等学校に設置された学科)を前身とする予備校「修猷学館」が存在し、他校卒生も入学することができた。学校の裏手にある西南学院大学に隣接し、教員や模試も高校と共通であったため、「修猷は四年制高校」とも揶揄された。九大をはじめとする国立大学の医学部へと卒業生を多数輩出したが、1995年に閉校となり、跡地は西南学院大学により図書館の敷地の一部として買収された。 修猷館の名は『尚書』「微子之命」の章句「踐脩厥猷(せんしゅうけつゆう)」から取られた[5]。「微子之命」は周の黄金時代を築いたとされる成王(在位 紀元前1042年-1021年)が殷の王族である微子啓に殷王室の後継者となることを命じた文章である。「踐脩厥猷」は「厥(そ)の猷(みち)を踐(ふ)み脩(おさ)む」と書き下し、「成湯の偉大な道を実践し修める」ということを意味する[6]。典拠となった一篇は以下の通り。嗚呼 乃祖成湯 克斉聖広淵 皇天眷佑 誕受厥命 撫民以寛 除其邪虐 功加于時 徳垂後裔 爾惟踐脩厥猷 旧有令聞 ? 『尚書』微子之命書き下し文:嗚呼、乃(なんぢ)の祖成湯、克(よ)く斉聖広淵(せいせいこうえん)なり。皇天眷佑(こうてんけんゆう)し、誕(おおい)に厥の命を受く。民を撫するに寛を以てし、其の邪虐を除く。功時に加はり、徳後裔(こうえい)に垂る。爾(なんぢ) 惟(こ)れ厥の猷を踐み脩め、旧(ひさ)しく令聞あり。現代語訳:ああ、汝の祖である成湯は慎み深く賢明で度量は広く物事に通じていた。そこで大いなる天はそれを助け、(成湯は)天命を受けた。民を寛大な政治によって治め、(桀の)悪虐を除いた。功業は当時を潤し、徳は後世の子孫にまで及んだ。汝はその成湯の偉大な道を実践し修めており、久しく立派な評判がある。 藩校が廃藩置県で閉鎖された後、県立中学として再興されようとした際に、文部大臣から「旧藩校時代の校名は不適切」との理由で校名の変更を迫られたが、旧藩士はこれに猛反発し[7]、旧福岡藩主黒田長溥が「学校経費は全て黒田家が出すから館名を残せ」と決意したことにより館名は守られた[8]。
概要
組織
校名「脩猷館」の扁額東門の門柱に刻まれた「修猷館」の文字