日本に禅宗が伝来して以後、宋・元の間、日本では鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、禅僧の往来が頻繁になった。入宋僧は80人以上、宋から来日した僧は20人以上が知られ、元に至ってその交易はいっそう活発になり、入元僧は200人以上、元からの渡来僧は鎌倉幕府がその来日を制限しようとしたほど多くなったという。このように両国の交流は禅僧を介して密接になり、その影響は日本の政治・文学・建築・芸術にまで及び、書道の方面も中国の禅僧の墨跡が伝来して鎌倉時代の禅林の間に流行した。以下、その時代背景と墨跡の伝来について記す[3][12][16][17][24][25]。 「中国の近世は宋朝にはじまる」[注釈 3]といわれるように、宋代以後、中国の歴史は新しい段階に入り、貴族に代わって士大夫が活躍した時代、政治的には武人政治が解体して皇帝独裁政治の時代であった。その武人と貴族の勢力を抑えるため、官吏の任用に科挙の制を用いて文治に力を注いだ結果、文学・芸術・宗教がすこぶる興隆発展することとなった[24][27]。 書道においては、北宋のはじめ約半世紀ほどは中国の伝統的書法である晋唐の書の模倣が続き、王羲之の書風が流行した。やがて唐人が書法や型に束縛されて生気を失ったことの反省から、宋人は自由に自己を表現しようと考え、蘇軾・黄庭堅・米?の三大家によって大きく書風が革新された。その新書風は南宋に及んでも流行し、大多数の書人はそれに属するものであった。しかし南宋中期から次第に晋唐へと復古する傾向が見られ、南宋の書道には、二王を宗とするものと、宋の三大家に学ぶものとの二つの潮流があった。やがて、それが元の趙孟?の復古調の全盛時代という形で淘汰されていくが、晋唐の書へ復古するに至った理由は、宋人が自由と個性とを尊重して古法を軽んじ、粗放になったという反省からによるといわれている。以上が宋・元時代の書道の大勢である[17][24][28][29]。 一方、宗教においては、宋・元の時期、禅仏教が盛況を呈した。宋朝は科挙によって官僚を登用する必要から儒教を重んじたが、同時に仏教や道教も保護し、この国家による保護政策によって仏教は隆盛に向かった。その中心は禅宗であり、宋代の禅宗は曹洞宗・法眼宗・雲門宗・?仰宗・臨済宗の五家と、その臨済宗が楊岐派と黄龍派に分かれることから五家七宗と呼ばれる。宋の中期以後、楊岐派と黄龍派が次第に勢力を伸ばし、初めは黄龍派が盛んであったが、後には次第に楊岐派が優勢となった。そして南宋末の楊岐派の発展は目覚しく、殊に圜悟克勤の門下から出た大慧宗杲は多くの弟子を集めて一派をなした(大慧派)。その後、密庵咸傑の活躍により、同じく圜悟の門下の虎丘紹隆の系統(虎丘派)が盛んになり、その密庵門下では松源崇嶽・破庵祖先の2人が特に有名で、それぞれ一派をなした(松源派・破庵派)。南宋時代の禅文化に最も大きな影響を与えた無準師範は、その破庵派から出ている。 元朝は、南宋以来の漢民族の生活と文化をほぼそのまま容認したため、元代も仏教の中心は禅宗で、活躍した禅僧の多くは臨済宗であった。その中で特に重要な人として、破庵派の中峰明本、松源派の古林清茂や了庵清欲などをあげることができる。
時代背景
中国(宋・元時代)
書道
詳細は「中国の書道史#宋・遼・金」および「中国の書道史#元」を参照
仏教