禁中並公家諸法度
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第16条紫衣の寺住持職一 紫衣之寺住持職、先規希有之事也。近年猥勅許之事、且亂臈次、且汚官寺、甚不可然。於向後者、撰其器用、戒臈相積、有智者聞者、入院之儀可有申沙汰事。
紫衣を許される住職は以前は少なかった。しかし、近年はみだりに勅許が行われて(紫衣の)席次を乱しており、ひいては寺院の名を汚すこととなり、大変よろしくない。今後は(当人の能力をもって)紫衣を与えるべきかどうかを良く選別し、その住職が紫衣を与えるに相応しい住職であることを確かめた上で、紫衣を与えるべきである。)
 第17条 上人号一 上人號之事、碩學之輩者、本寺撰正權之差別於申上者、可被成勅許。但、其仁躰、佛法修行及廿箇年者可爲正、年序未滿者、可爲權。猥競望之儀於有之者、可被行流罪事。
 末文、作成年月日、署名花押右可被相守此旨者也。
(このむねをあいまもらるべきものなり)

慶長廿年乙卯七月日
(慶長20年7月)

昭 實花押
秀 忠(花押)
家 康(花押)

この法度の分析

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天皇に学問和歌の修学を義務付けた第一条は、かつては天皇を天下国家から遠ざけ和歌や風流の世界に閉じ込めるために規定されたものと解釈されていたが、1980年代頃から解釈の見直しの研究が進み、幕府が定めた規定は従来からある天皇の日本の国王や帝王としての地位を認めつつ、『禁秘抄』『貞観政要』『群書治要』といった具体的な和漢の帝王学の書物を挙げて、学問を学ぶことにより日本国の帝王としてよりよき政治を行い天下太平の維持への貢献を期待するものであったと解明されている[5]

第一条の条文は鎌倉時代順徳天皇が記した有職故実書『禁秘抄』に書かれている文章の抜粋である[6]。これについて橋本政宣は第一条にこれに関白が連署して公家法としての要件を得る事によってこの法度の実際の制定権力である江戸幕府への「大政委任」の法的根拠を与えたと解説する[7]

橋本の分析によると、武家伝奏の位置付けなど朝幕関係のあり方を規定し、幕府への大政委任に法的根拠を与えた事は事実であるが、直接的に朝廷の統制を目的とした条文は存在していない。そもそもこの法度の対象に含まれるのは、大政委任を受けた征夷大将軍の指揮下に置かれて自身も武家官位の任命対象である「武家」や僧官の任命対象である「僧侶」など、朝廷と将軍によって任官された全ての身分が拘束されるものである。更に、新規に定められたものは朝幕関係規定以外は宮中座次など、むしろ朝廷内部で紛糾していた問題に関連する部分が多い。戦国時代の混乱期に一旦は解体しかけた朝廷及び公家社会の秩序回復に、江戸幕府が協力する姿勢を示したものとも言える。これは歴史上で見れば、鎌倉時代皇位継承で朝廷内が紛糾した際に鎌倉幕府両統迭立原則を呈示して仲裁にあたった事例に近い性質のものである(ここで問題とされたものは、後に紫衣事件尊号一件などで再び議論が持ち上がったものばかりで、幕府権力をもってしても困難な課題であった事も共通している)。つまり、禁中並公家諸法度本来の趣旨としては公家武家僧侶天皇及びその大政委任を受けた征夷大将軍に仕えるための秩序作りのための法度であった結論づける[8]。これに対して田中暁龍は法度の作成に二条昭実ら朝廷側も関与していたことや宮中座次などの問題の解決を目指したことについては同意するが、一条兼香(江戸時代中期の摂関)が示した第一条解釈(『兼香公記』享保20年4月22日条)を引用しながら、朝廷において天皇に求められた学問は和歌や文学よりも「国家治政の学問」であるという論理は『禁秘抄』が書かれた昔から一貫して変わっておらず、その朝廷側の論理を幕府が汲み込む形で第一条は成立したと考えられ、幕府側の論理である大政委任の法的根拠と解釈することは出来ないとしている[9]

江戸幕府による朝廷及び公家社会の秩序回復については、関ヶ原の戦いの翌月(慶長5年(1600年10月)に、公家領の録上を行い、翌年には禁裏御料をはじめとして女院宮家公家門跡に対する知行の確定を行っている。続いて、地下官人制度の再編成を行っており(出納平田家による蔵人方統率など)、禁中並公家諸法度もその流れの一環として位置づけられる。また、武家官位との関係で言えば、武家官位の員外官化と公家官位からの分離は既に慶長11年(1606年)4月に導入されていた武家官位推挙の江戸幕府への一本化と合わせ、豊臣氏宗家を摂関家に豊臣氏庶流や豊臣氏庶流および徳川・前田・上杉・毛利・宇喜多の諸氏を清華家として位置づけようとした豊臣政権における官位システムの解体[注釈 8]と徳川氏による武家官位掌握を目指したものであり、その結果徳川氏一門を唯一の武家公卿とする原則(まれに加賀藩前田氏などが公卿となった例がある)が確立された[10]

[疑問点ノート]徳川家広は禁中並公家諸法度法度を憲法であったとし、また同法度を「世界最初の長続きした憲法」としている[11]


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