祭車
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江戸時代中期に主流であった造り物は次第に山形十二張の提燈に変化し、当初、一本物[注 4]の真柱であったものが、明治42年に電線が張り巡らされたことで1段目と2段目の間で折り曲げるようになった。電線が張り巡らされたことで造り物への復古があったようである。堤原の神功皇后はこの時のものである。

造り物については焼け残った町が2ヶ町、戦前の再生が2ヶ町、戦後の新造が2ヶ町の計6ヶ町である。

山形十二張については丸提燈が2ヶ町、高張提燈が35ヶ町である。また15ヶ町が薄張を使用する。真柱に面皮柱を使用する町が23ヶ町ある。[注 5] 平成24年に宮北が薄張12張を新調したため薄張使用町内は16ヶ町となった。
勾欄

勾欄が大型である。高々九尺の祭車の勾欄としてはかなり大きい。[注 6]これは他の祭りの勾欄が装飾目的以外に転落防止のフェンスの役割を果たすのに対し、石取祭では山形操作の為の足場としての役割を果たすためとの説がある。[注 7]
天幕

もともとは楽器の保護、日よけのための簡素な幕であったものが跳ね上げ機構を取り入れることで見送幕の役割も担うようになり次第に豪華になってきたと考えられる。[4]

天幕下を照らすため、及び跳ね上げ時に天幕を照らすため回りに7?9張の提燈を吊るす。幕に直接提燈等の照明手段を付けることは他の祭りではあまり見られない。
夜間照明

夜間照明として山車の周りに提燈を付けるのが普通であるが、石取の場合は山形十二張があるため蝋燭をそのまま祭車の回りに設置して夜間照明としてきた。燭台等も夕刻になってから取り付けるのでは無く昼間の祭車飾り付けの際に初めから取り付ける。よって昼夜による祭車装飾の変化は無い。[注 8]

戦後になり電球を導入してバッテリー、発電機などが使用されるようになってきたが照明器具は蝋燭を模したものが主流である。なお電燈ではなくオイル、アルコール等の燃料を使った模擬蝋燭を使用する町もある。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 美濃路(熱田?垂井)とは別に桑名から揖斐川右岸沿いに美濃に向かう道
^ 四輪の祭車についてはいなべ市方面に譲渡されたもの、現地で新造されたものが多数現存する。
^ 補助輪は東矢田町の考案
^ 一本物の山形については諸戸氏庭園(財団法人諸戸会)に旧来の物が現存する。
^ 角面を加工して面皮柱に似せた町を含む。
^ 基本的に勾欄の大きさは祭車を支える四本柱の太さに依存する。
^ ただし大工によれば「なる程とは思うが、昔の大工からのそのような伝承はない」とのこと。
^ 戦前の絵葉書によると昼間燭台を設置しなかった町内も存在した様である。

出典^ 桑名石取祭総合調査報告書(P233) 桑名市教育委員会
^ 久波奈名所図会 石取神事燈物図
^ 絵本名物桑名時雨蛤 石取神事つくりものくるまの図
^ 桑名石取祭総合調査報告書(P373) 桑名市教育委員会


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