伝統的キリスト教の多数の教派においては、ナザレのイエスはキリスト(イエス・キリスト)であり、三位一体(至聖三者)の第二位格たる子なる神であり、完全な神でありかつ完全な人であると理解されている[25][26][27][28][29][30][31]。
三位一体論の定式の確認の多くは、古代の公会議(正教会で全地公会議と呼ばれる一連の公会議)においてなされた。
キリスト教における訳語としての「神」「デウス#日本のカトリックにおけるデウス」も参照
カトリック教会では、かつては「天主(てんしゅ)」の訳語が用いられており、大浦天主堂や浦上天主堂などの教会名にその名残を留める。また隠れキリシタンによる「ゴッド」の訳には「ゴクラク」「オタイセツ」など[32]があったという。
漢字である「神」が、ヘブライ語: "?????"、古代ギリシア語: "Θε??"、英語: "God"の訳語に当てられたのは、近代日本でのキリスト教宣教に先行していた清におけるキリスト教宣教の先駆者である、ロバート・モリソンによる漢文聖書においてであった。しかしながら訳語としての「神」の妥当性については、ロバート・モリソン死後の1840年代から1850年代にかけて、清における宣教団の間でも議論が割れていた。この論争は中国宣教史上「Term question(用語論争)」と呼ばれる。この論争の発生には、アヘン戦争後に清国でのキリスト教宣教の機会が格段に増大し、多くの清国人のためにより良い漢文訳聖書が求められていた時代背景が存在していた[34]。用語論争において最大の問題であったのは、大きく分けて「上帝」を推す派と「神」を推す派とが存在したことである。前者はウォルター・メドハーストなど多数派イギリス人宣教師が支持し、後者をE.C.ブリッジマンをはじめとするアメリカ人宣教師たちが支持した[34]。
現代でもその妥当性については様々な評価があるが、和訳聖書の最も重要な底本と推定されるモリソン訳の流れを汲むブリッジマン、カルバートソン (M. S. Culbertson) による漢文訳聖書では「神」を採用していた。ほとんどの日本語訳聖書はこの流れを汲み[35]、「神」が適訳であるかどうかをほぼ問題とせず、訳語として「神」を採用するものが今日に至るまで圧倒的多数となっている。ただし日本においても全く問題とされなかったわけではなく、1938年にはキリスト教神学者の前島潔が「神」という用語についての論文[36]を書いている。
イスラームの神「アッラーフ(???? Allah)」も参照
旧約聖書の創世記において、アブラハムの子であり異母兄弟であるイサクとイシュマエルがおり、このうちイサクがユダヤ一族の祖である旨の記述がある。イスラームの聖典であるアル=クルアーン(コーラン)にはイシュマエルがアラブ人の祖であるとの記述がある。なお、イシュマエルとはヘブライ語での読み方であり、アラビア語ではイスマーイールとなる。また、インジール(福音書)に描写されたイーサー(イエス)は神性を有する存在ではなく、ムハンマドやモーセなどのように神の預言者の一人であるとみなされている。
ちなみに、イスラーム信徒に広く使われているアラビア語の中の、神を意味する単語で「アッラーフ」または「アラー」「アッラー」(アラビア語: ???? ラテン文字化: Allah)がある。これは、普通名詞である場合と、固有名詞である場合がある。
福音書における神「ロゴス」も参照
キリスト教、ネストリウス派、イスラム教が教典とするヨハネによる福音書において、「言は神」である。