八万四千の法門の「八万四千」は、仏教で「多数」を意味する語[22]であり、八百の由来とする説がある。他にも八大地獄、八大奈落、八大明王、八大童子、八大菩薩などがあり、八は多くの仏教用語で使用されている。
仏教伝来時に発生した崇仏・廃仏論争において物部尾輿・中臣鎌子らは「我が国の王の天下のもとには、天地に180の神がいます。今改めて蕃神を拝せば、国神たちの怒りをかう恐れがあります[23]」と反対、私的な礼拝と寺の建立が認められた。しかし直後に疫病が流行し物部・中臣氏らは「仏神」のせいで国神が怒っているためであると奏上。欽明天皇は仏像の廃棄、寺の焼却を黙認したという[24]。神仏習合が進んだものの、斎宮には仏教に関する禁忌が存在した[25]。
中央集権化に伴い、神に対して人間の位階に相当する神階を奉授する神階制が成立した[9][26]。 たたりを恐れ崇拝の対象とする死霊崇拝はアニミズムの一形態とされている[27]。神社で怨霊を鎮めるために神として祀るなどした[28]。中国では魏(220年 - 265年)、晋以後に広まっているが、日本では奈良・平安・鎌倉時代に盛んに信仰され、怨霊がもたらす不幸を防ぐために呪法が行われたとされる[28]。 神道において、特に有力な人物や恨みを残して亡くなった人物を『神』として祀り、祟りを避けようとした例は数多い。中でも菅原道真を祀る天満宮は亡くなった人間を神として扱う顕著な例である。ただし、道真の生前から存在する神社(生祠)[29]や、出生譚には神仏の化身として現世に顕現した説話も存在する[30][31]。 これに対して近代に興った靖国神社は国家のために戦死した不特定多数を神として祀っており、特定単数を神として祀る先述の例と一線を画している。ただし、神社に祖霊社
神と霊
神の霊の構造について、荒魂・和魂があると考えられている。この2語の関係は、体系だって説明されることはないものの、『古事記』の神功皇后の箇所や『出雲風土記』[33]、また『延喜式』の臨時祭「霹靂神祭」などに登場する[34]。
神体詳細は「神体」を参照
神は本来、目に見えないものか見てはならないものとして観念されている一方で[35]、祭祀などに際し神が依るべき物体として神体があり、山や鏡など様々な物が神体とみなされている[36][37][38]。
フェティシズムとしての議論「呪物崇拝」も参照
宗教学などで使われる概念であるフェティシズムとしての議論があり、加藤玄智は神道における呪物崇拝の例として、宝石、刀、鏡、スカーフを挙げていた[39]。加藤は都市部を離れ農村部に入ると、アニミズム、呪物崇拝、男根崇拝の痕跡をたくさん見つけることができると述べている[40]。東北の民族学では竈神信仰を除魔の呪力が期待される呪物とする説もある[41]。
加藤玄智は十種神宝を呪物とするだけでなく、三種の神器も同様の性格を保持しており、東インド諸島の原住民のプサカや中央オーストラリア人のチュリンガとの類似性を指摘した[42]。
加藤玄智が呪物崇拝の事例とした神には以下のようなものがある[42]。
草薙剣は神剣の霊験によって超自然的な保護(御利益)を得られるとされ、草薙剣を神格化して尾張国熱田に祀ったのが、現在の熱田神宮だとした[42]。
天照大神は孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が地上に降りる際に鏡を授け、鏡を自分の崇高な御魂と見なして、天上で彼女を崇拝するのと同じように鏡を崇拝するように命じており、日本書紀では鏡を拝むという宗教意識の極致である鏡の神格化が行われたと指摘している[42]。
比売許曽神社の祭神である阿加流比売神(あかるひめのかみ)は赤い玉であったが、神格化され神となった[42]。神代ではイザナギノミコトの首にかけられた宝石が神格化されて、御倉板挙之神(みくらたな神)とよばれた[42]。
文徳天皇の時代、常陸国大洗の海岸で、ある夜突然2つの石の呪物が不思議な光を放って現れ、それが大洗磯前神社に祀られている大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)であるとの託宣があったという[42]。
淡路島にある厳橿(いずかし)神社の神体は、伊勢神宮の鏡を模した神鏡が安置されている賢所(かしこどころ)で孝明天皇が着用した履物で、御目太(おまぶと)として親しまれており、地元住民の間では、祈願すれば病気の痛みが取れて治ると信じられていた[42]。
古事記によると、伊邪那美命に追われて伊耶那岐神が黄泉国から逃げ還った際、黄泉比良坂を塞いだ千引の石を完全に神格化して道返之大神とした[42]。
世界宗教用語大事典によると、御鍬祭(みくわさい、おくわまつり)では鍬形を神として崇め、農事を祈る[43]が、伊勢神宮神田での儀礼用の鍬や鋤は呪物として神格化された[42]。
久延毘古とも呼ばれる「山田のそほど」は田んぼに設置された鳥よけのかかしを神格化した神として知られる[42]。
日本の言語と歴史に精通した学者、作家、外交官であるウィリアム・ジョージ・アストンは著作『Shinto: the Way of the Gods』において、日本には竈神への信仰があるが、神殿の偶像に向かって行う礼拝とは異なり、日本では竈(台所)に向かって礼拝が行われたとした[44]。