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また、第三章では、イシャー(女)が蛇に促されて禁断の実を食べアダム(人)にも与えたので彼も食べたために、アドナイ(主)と読み替えて音読される「????」とエロヒームは、がイシャー(女)の子孫のかかとを砕きイシャー(女)の子孫から頭を砕かれるように呪い、イシャー(女)には、苦悩と分娩を増やしに増やし苦痛の中で男児たちを産みイーシュ(男)に支配されると言い渡し、アダム(人)にも、顔に汗して食べ物を得ようと苦しむと言い渡し、土を呪ったことが記されている。そして、アドナイ(主)と読み替えて音読される「????」とエロヒームは、彼らの一人のようになったアダム(人)が命の木からも取って食べ永遠に生きないよう、アダム(人)をエデンの園から追い出し、また、命の木に至るを守るために、エデンの園の東に回されている燃える剣とケルビムを置いたことが記されている。[14]

申命記詩篇箴言知恵の書」などにおいて神を信じる人々のあるべき生き方が示され、サムエル記列王記マカバイ記エステル記などにおいて神を信じた人々の生き方が示される。

なお、アドナイ(主)と読み替えて音読される「????」をそのまま声に出して読まない訳は、「神の名」を唱えてはいけないと伝えられている。

ただし、アドナイ(主)と読み替えて音読される「????」は、次の通り、イスラエルの祭司族であり書紀族でもあるレビ族の嗣業を指す[15]

口語訳聖書申命記10章9節‐そのためレビは兄弟たちと一緒には分け前がなく、嗣業もない。あなたの神、主が彼に言われたとおり、主みずからが彼の嗣業であった。

新共同訳聖書申命記10章9節‐それゆえレビ人には、兄弟たちと同じ嗣業の割り当てがない。あなたの神、主が言われたとおり、主御自身がその嗣業である。

欽定訳聖書申命記10章9節‐Wherefore Levi hath no part nor inheritance with his brethren; the LORD is his inheritance, according as the LORD thy God promised him.

日本の高等学校公民科の教科書や一般の出版物では、ユダヤ教の神を、ヘブライ文字で「ヨッド・ヘー(無声声門摩擦音)・ヴァヴ(軟口蓋接近音)・ヘー(無声声門摩擦音)」という子音で綴られた「????」(エ・ハヴァー)のみとし、その発音をYah・weh[14]のカタカナ読みとして「ヤハウェ」と明記している。しかし、ヘブライ語としての実際の発音は、子音で「ヘット(無声軟口蓋摩擦音)・ヴァヴ(軟口蓋接近音)・ヘー(無声声門摩擦音)」と綴るアダムの妻の名「???」(ハヴァー)に非常に近い[16]。カタカナでその発音を表記するのは非常に難しく、「?」と「?」と「?」は、日本語で表記すると「ハ」のヴァリエーションにも聞こえる。なお、このアダムの妻の名は、キリスト教口語訳聖書新共同訳聖書エバと表記されているが、日本ではイヴと表記されることも多い。
キリスト教の神
三位一体詳細は「三位一体」および「イエス・キリスト」を参照アンドレイ・ルブリョフによるイコン至聖三者』。
正教会には旧約聖書においてアブラハムを3人の天使が訪れたことを三位一体の神の象徴的顕現として捉える伝統があるが、そのもてなしの食卓の情景を描いたイコンをもとに3人の天使のみが描かれたもの。

キリスト教のうちほとんど(カトリック教会[17]聖公会[18]プロテスタント[19][20][21][22]正教会[23]東方諸教会[24]など)が「聖霊」を唯一の神(三位一体至聖三者)として信仰する。

伝統的キリスト教の多数の教派においては、ナザレのイエスキリストイエス・キリスト)であり、三位一体(至聖三者)の第二位格たる子なる神であり、完全な神でありかつ完全な人であると理解されている[25][26][27][28][29][30][31]

三位一体論の定式の確認の多くは、古代の公会議正教会全地公会議と呼ばれる一連の公会議)においてなされた。
キリスト教における訳語としての「神」「デウス#日本のカトリックにおけるデウス」も参照

カトリック教会では、かつては「天主(てんしゅ)」の訳語が用いられており、大浦天主堂浦上天主堂などの教会名にその名残を留める。また隠れキリシタンによる「ゴッド」の訳には「ゴクラク」「オタイセツ」など[32]があったという。

プロテスタントには「真神」という用語もあった[33]

漢字である「神」が、ヘブライ語: "?????"‎、古代ギリシア語: "Θε??"、英語: "God"の訳語に当てられたのは、近代日本でのキリスト教宣教に先行していたにおけるキリスト教宣教の先駆者である、ロバート・モリソンによる漢文聖書においてであった。しかしながら訳語としての「神」の妥当性については、ロバート・モリソン死後の1840年代から1850年代にかけて、清における宣教団の間でも議論が割れていた。この論争は中国宣教史上「Term question(用語論争)」と呼ばれる。この論争の発生には、アヘン戦争後に清国でのキリスト教宣教の機会が格段に増大し、多くの清国人のためにより良い漢文訳聖書が求められていた時代背景が存在していた[34]。用語論争において最大の問題であったのは、大きく分けて「上帝」を推す派と「神」を推す派とが存在したことである。前者はウォルター・メドハーストなど多数派イギリス人宣教師が支持し、後者をE.C.ブリッジマンをはじめとするアメリカ人宣教師たちが支持した[34]

現代でもその妥当性については様々な評価があるが、和訳聖書の最も重要な底本と推定されるモリソン訳の流れを汲むブリッジマン、カルバートソン (M. S. Culbertson) による漢文訳聖書では「神」を採用していた。ほとんどの日本語訳聖書はこの流れを汲み[35]、「神」が適訳であるかどうかをほぼ問題とせず、訳語として「神」を採用するものが今日に至るまで圧倒的多数となっている。ただし日本においても全く問題とされなかったわけではなく、1938年にはキリスト教神学者の前島潔が「神」という用語についての論文[36]を書いている。
イスラームの神「アッラーフ(???? Allah)」も参照

旧約聖書創世記において、アブラハムの子であり異母兄弟であるイサクイシュマエルがおり、このうちイサクがユダヤ一族の祖である旨の記述がある。


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