1944年(昭和19年)6月下旬、日本海軍はマリアナ沖海戦に大敗(城も「千代田」艦長として参加)[36]。城は大西に対して再び特攻隊の編成を電報で意見具申している[37]。また第一機動艦隊司令長官小沢治三郎中将、連合艦隊司令長官豊田副武大将、軍令部総長及川古志郎大将にも「体当たり攻撃以外に戦勢回復の手段はない」との見解を上申した[36]。
マリアナ沖海戦後、岡村基春大佐も大西へ対して特攻機の開発、および特攻隊編成の要望があった[38]。さらに、第二五二海軍航空隊(252空)司令舟木忠夫大佐も「体当たり攻撃(特攻)以外、空母への有効な攻撃は無い」と大西に訴え[39]、大西自身もこの頃には「何とか意義のある戦いをさせてやりたいが、それには体当たりしか無い。もう体当たりでなければいけない」と周囲に語っていた[40]。既にこの頃、日本海軍の中央で特攻兵器の研究は進められていたが、これは神風特攻隊とは関係無い別物だった[41]。
中央で着々と航空特攻開始に向けての機運が高まる中、前線では未だ通常の航空作戦によるアメリカ軍艦隊の迎撃策の準備が進められていた。次にアメリカ軍の侵攻が予想されるフィリピンに配置されていた第二〇一海軍航空隊では、零式艦上戦闘機を爆戦として運用し、急降下爆撃でアメリカ軍艦隊を攻撃しようと計画しており、副長玉井浅一中佐のもとで連日猛訓練を行っていた[42]。しかし、戦闘機搭乗員には急降下爆撃は難易度が高く、より容易な反跳爆撃に攻撃方法を変更してその訓練を行うこととしている[43]。 1944年9月に入ると、フィリピンミンダナオ島の第一航空艦隊司令部があるダバオは連日のようにアメリカ軍の空襲を受けるようになり、日本軍はミンダナオ島にアメリカ軍が上陸してくる可能性が大きいとして警戒を強めていたが、9月10日の午前4時に第32特別根拠地隊サランガニ見張所が「湾口に敵上陸用舟艇が見える」との報告を行った。一航艦隊司令部は夜明けを待って偵察機で情報を確認することとしたが、夜明を待たずに敵発見の第一報をした第32特別根拠地隊が「いま、根拠地隊では『総員戦闘用意』の号令がかかったところ」「敵戦車15,000mまで接近」などと具体的な続報を送ってきて、最後には「敵は上陸を開始しました。根拠地隊司令部はミンタル(陸軍の師団司令部所在地)に出かけます」という報告があったことから、一航艦司令の寺岡謹平中将は、航空機をセブ島に退避させ、司令部はバレンシア
ダバオ誤報事件
「ダバオ誤報事件」で戦力を消耗した201空ではあったが、9月22日、その報復としてこれまで爆戦隊の訓練を取り仕切ってきた戦闘301飛行隊長鈴木宇三郎海軍大尉が指揮官となり、爆戦の零戦十数機を率いて出撃しアメリカ軍機動部隊への攻撃を行っている。その後の9月25日、爆戦隊の指揮と訓練指導を期待されて艦上爆撃機の搭乗員で訓練教官でもあった関行男大尉が、戦闘301飛行隊の分隊長として着任し、のちに台湾沖航空戦で鈴木が戦死したため、その後任として戦闘301飛行隊長に昇進している[50]。 1944年(昭和19年)10月5日、ダバオでの失態もあって寺岡が更迭され、大西が第一航空艦隊司令長官に内定すると、軍需局を去る際に局員だった杉山利一
大西中将が第一航空艦隊司令長官着任