神風特別攻撃隊
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同年6月5日城英一郎大佐(昭和天皇侍従武官)は、特別縁故者として山本元帥の葬儀に参列[20][26]。かつて山本と「航空機体当たり」を検討した事を回想する[20][26]。同年6月22日、城は自らを指揮官とする「特殊攻撃隊」の構想をまとめる[26][27]。投入予定海域はソロモン諸島およびニューギニア方面で、敵大型艦(戦艦空母)は大破、特設空母(軽空母)や巡洋艦は大破または撃沈、駆逐艦や輸送船は撃沈を期待というものだった[28]6月29日、城は、特殊航空隊の構想を海軍航空本部総務部長大西瀧治郎中将に説明した[26][29]。数回の意見具申に対し大西は「(意見は)了解したがまだその時期ではない」と返答し、全幅の賛同を示さなかった[30][31][32]ニュージョージア島の戦い勃発により戦局が悪化する中、城は「特殊航空隊の緊急必要」を痛感する[33]。「上司としても計画的に実行するには相当の考慮が必要である。自身としては黙認が得られて、航空機と操縦者が得られれば実行可能であり、転出して実行の機会を待つ」の心境であり[26][32]、その後も個人的に特攻隊について研究し、海軍航空本部の高橋千隼課長等にも相談していた[26][34][35]

1944年(昭和19年)6月下旬、日本海軍はマリアナ沖海戦に大敗(城も「千代田」艦長として参加)[36]。城は大西に対して再び特攻隊の編成を電報で意見具申している[37]。また第一機動艦隊司令長官小沢治三郎中将、連合艦隊司令長官豊田副武大将、軍令部総長及川古志郎大将にも「体当たり攻撃以外に戦勢回復の手段はない」との見解を上申した[36]

マリアナ沖海戦後、岡村基春大佐も大西へ対して特攻機の開発、および特攻隊編成の要望があった[38]。さらに、第二五二海軍航空隊(252空)司令舟木忠夫大佐も「体当たり攻撃(特攻)以外、空母への有効な攻撃は無い」と大西に訴え[39]、大西自身もこの頃には「何とか意義のある戦いをさせてやりたいが、それには体当たりしか無い。もう体当たりでなければいけない」と周囲に語っていた[40]。既にこの頃、日本海軍の中央で特攻兵器の研究は進められていたが、これは神風特攻隊とは関係無い別物だった[41]

中央で着々と航空特攻開始に向けての機運が高まる中、前線では未だ通常の航空作戦によるアメリカ軍艦隊の迎撃策の準備が進められていた。次にアメリカ軍の侵攻が予想されるフィリピンに配置されていた第二〇一海軍航空隊では、零式艦上戦闘機爆戦として運用し、急降下爆撃でアメリカ軍艦隊を攻撃しようと計画しており、副長玉井浅一中佐のもとで連日猛訓練を行っていた[42]。しかし、戦闘機搭乗員には急降下爆撃は難易度が高く、より容易な反跳爆撃に攻撃方法を変更してその訓練を行うこととしている[43]
ダバオ誤報事件

1944年9月に入ると、フィリピンミンダナオ島第一航空艦隊司令部があるダバオは連日のようにアメリカ軍の空襲を受けるようになり、日本軍はミンダナオ島にアメリカ軍が上陸してくる可能性が大きいとして警戒を強めていたが、9月10日の午前4時に第32特別根拠地隊サランガニ見張所が「湾口に敵上陸用舟艇が見える」との報告を行った。一航艦隊司令部は夜明けを待って偵察機で情報を確認することとしたが、夜明を待たずに敵発見の第一報をした第32特別根拠地隊が「いま、根拠地隊では『総員戦闘用意』の号令がかかったところ」「敵戦車15,000mまで接近」などと具体的な続報を送ってきて、最後には「敵は上陸を開始しました。根拠地隊司令部はミンタル陸軍師団司令部所在地)に出かけます」という報告があったことから、一航艦司令の寺岡謹平中将は、航空機をセブ島に退避させ、司令部はバレンシアに後退することと決めた[44]。しかし、敵上陸に確信が持てなかった一航艦隊猪口力平主席参謀は小田原俊彦参謀長と松浦参謀に、ダバオ第1飛行場に残った零戦で湾内を偵察するように依頼した結果、10日夕方になって、両参謀と自己判断で偵察飛行した第201海軍航空隊副長玉井浅一中佐によって、敵上陸はまったくの誤報であることが判明し、猪口は「敵上陸の報告は全部取り消し」と慌てて全部隊に打電している[注 3][45][46][47]。この事件はのちに海軍最大の不祥事の一つとして、「ダバオ誤報事件」(または平家の大軍が、水鳥が立てた羽音を源氏の襲来と誤認して逃げ散った「富士川の戦い」の故事に因んでダバオ水鳥事件とも)とよばれることになった[48] 。この誤報によりセブ島に集中していた航空機のうち、ダバオへの帰還が遅れた約100機が9月12日にアメリカ軍の空襲を受けて、地上で80機を撃破されるという大失態を演じているが、このうち50機が主力戦闘機の零戦であり、一航艦はアメリカ軍上陸前に戦力をすり潰してしまった[49]

「ダバオ誤報事件」で戦力を消耗した201空ではあったが、9月22日、その報復としてこれまで爆戦隊の訓練を取り仕切ってきた戦闘301飛行隊長鈴木宇三郎海軍大尉が指揮官となり、爆戦の零戦十数機を率いて出撃しアメリカ軍機動部隊への攻撃を行っている。その後の9月25日、爆戦隊の指揮と訓練指導を期待されて艦上爆撃機の搭乗員で訓練教官でもあった関行男大尉が、戦闘301飛行隊の分隊長として着任し、のちに台湾沖航空戦で鈴木が戦死したため、その後任として戦闘301飛行隊長に昇進している[50]
大西中将が第一航空艦隊司令長官着任

1944年(昭和19年)10月5日、ダバオでの失態もあって寺岡が更迭され、大西が第一航空艦隊司令長官に内定すると、軍需局を去る際に局員だった杉山利一に対して「向こう(第一航空艦隊)に行ったら、必ず(特攻を)やるからお前らも後から来い」と声をかけた。これを聞いた杉山は、大西自らが真っ先に体当たり特攻を決行するだろうと直感したという[51]。大西は出発前、海軍省で海軍大臣米内光政大将に「フィリピンを最後にする」と特攻を行う決意を伝えて承認を得ていた[52]。また、及川古志郎軍令部総長に対しても決意を語ったが、及川は「決して(特攻の)命令はしないように。(戦死者の)処遇に関しては考慮します」[53]「(特攻の)指示はしないが、現地の自発的実施には反対しない」と承認した。


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