神道
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昭和8年の『少年國史物語』では、「神代の物語」の項目に、「どこの國でも大昔の事ははつきりとは分らないものだが」と前置きをして、神代の事から始まる日本の歴史について「神代といふのは、我が國の大昔に相當の身分であつた方たちを後の世の人が尊敬して、すべて神として崇めてゐるところから、その方たちの時代を指してさう呼んでゐるのである」と説明されている[59][60]
神道の研究

平安時代以前より出雲において日本神話との関わりが議論されていたとされ、『出雲風土記』には他所風土記とは違い、そういった性格を色濃くみることができる[要出典]。

鎌倉時代には伊勢神宮神官による学問的研究がはじまり、徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至った[37]。そして、そうした伊勢派の努力はやっと江戸末期のお伊勢参りの確立によって知識人よりも祖霊性の強い庶民の一部からも支持を得ることに成功した。一方で、本居宣長が江戸期に『古事記』の詳細な注釈を行い、国学の主流を形成していった[61]。これら神道や国学の目覚めが欧米列強に植民地化されつつあったアジアの中で、日本の自覚を促し、明治維新を成功に導く思想的流れの一角を成した。神道が形成される過程において、古代は仏教から強く影響を受け、近世では儒教の日本への流入が大きい。伊勢派の果たしたことはそれに対抗する神道側の努力だったと考えるべきだろう[要出典]。

神道史の本格的な研究は宮地直一によって体系化された[要出典]。彼は神代史(神話)と歴史を区別した講義を國學院大學の前身である皇典講究所開催の神職講習会で行い、『神祇史』(皇典講究所國學院大學出版部)として1910年(明治43年)に出版している[62]

神道の成立期については諸説出されている。おもな説として次の四説があげられている。その第一説は、7世紀後半・8世紀、律令祭祀制。天武・持統天皇朝説。この説は大方の了承を得られる妥当な学説と考える。第二説は、8・9世紀、平安時代初期説。提唱者は高取正男。第三説は、11・12世紀、院政期成立説。提唱者は井上寛司。第四説は、15世紀、吉田神道成立期説。提唱者は黒田俊雄[63]
現代の神道神社の例(箱根神社

神道に属する神々を祭神とする社を神社(じんじゃ)といい、全国の神社の大部分は神社本庁が統括している[64]。なお、神社本庁は「庁」と称しているが、行政機関ではなく宗教法人のひとつである[65]
皇室と神道天皇陵仲哀天皇・恵我長野西陵)皇室の祖先神を祀る伊勢神宮内宮1990年(平成2年)第125代天皇(現・上皇)の大嘗祭
大嘗祭は新天皇の即位後、五穀豊穣と国民安寧を祈る神道祭祀である。

宮中祭祀に見られるように、皇室と神道は歴史的に密接な関わりを持ってきた。記紀神話には、神武天皇が大和橿原の地で即位したのちに鳥見山の祭壇で祭祀を行ったとの記述があり、古代においては祭政一致の観念のもと、神祭りを行うことと国を治めることが一体であり、そのいずれもが天皇の役割であると考えられていたとされる[66]。そして、記紀には崇神天皇の時代に天神地祇を祀る制度が整備されたとされ[67]、律令制の整備が進む飛鳥時代には、神祇官より全国の神社へ幣帛が頒布される班幣制度が整備された[68]。平安時代以降は、天皇が名神大社に対して勅使を派遣して奉幣と宣命の奏上を行わせる名神大社奉幣が盛んになり、次第に二十二社への奉幣と展開した[69]。平安時代の中期以降は、律令制度の弛緩に伴う神祇官の衰退により、天皇の親祭が高まり、年始の元旦四方拝や天皇が内裏で毎朝、「石灰壇」と呼ばれる台で伊勢神宮を遥拝する毎朝の御拝や、即位に際して特定神社へ神宝を送る一代一度の大神宝使の制度が始められたほか、神社の行宮まで天皇が赴く行幸も始められた[70]

中世の戦乱で、皇室儀礼や皇室の神道儀礼などは廃絶していったが、江戸時代に入ると復興されてゆき、伊勢神宮の神嘗祭に際しての例幣使派遣(伊勢例幣使)は1647年正保4年)に、二十二社のうちの上七社及び宇佐八幡宮・香椎宮への奉幣は1744年延享元年)に復興された。天皇の特定神社への奉幣は、近代を経て現代にも受け継がれており、現在では賀茂神社、石清水八幡宮、春日大社をはじめ16の神社が勅祭社とされ、天皇からの奉幣にあずかっている。

多くの日本国民が仏教と神道の習慣と信仰を両立させているように、皇室も神道の祭祀と仏教の行事をともに行っていた。他方で、『貞観儀式』『儀式』などの規定によって、大嘗祭の期間は中央及び五畿の官吏が仏事を行うことが禁じられ、中祀および内裏の斎戒を伴う小祀には、僧尼の代理への参内を禁じ、内裏の仏事が禁じられたほか、平安時代中期以降には、新嘗祭、月次祭、神嘗祭などの天皇自らが斎戒を行う祭においては、斎戒の期間中内裏の仏事をやめ、官人も仏法を忌避することとなるなど、神道儀礼と仏教儀礼は、朝廷においては明確に区分されていた[71]。朝廷の復権を志向した光格天皇以降は、朝廷の儀礼における神道の要素が高まった。明治天皇の代で行われた神仏分離や神道国教化に伴い、仏教と皇室の直接的な関係は薄れたが、皇室菩提寺であった泉涌寺と宮内省の特別な関係は日本国憲法施行時まで続いた[要出典]。
アニミズムと神道「アニミズム」、「トーテミズム」、および「祭政一致」も参照

八百万の神々を信仰対象とする神道は、すべてのものが精神的な性質(人格があるか、擬人化された魂、霊等)を持つと信じるアニミズムの特徴を保持してきたと考えられている[72]。動植物やその他の事物に人格的な霊魂、霊神が宿るとするアニミズムは、非人格的な超常現象、超自然的な呪力を崇拝するマナイズム(呪力崇拝)とは区別される[73][74]アニミズムはすべてのものに魂があると主張するのに対し、物活論はすべてのものが生きていると主張する。[75]:149[76]

たたりを恐れ崇拝の対象とする死霊崇拝は未開宗教におけるアニミズムの一形態とされている[77]。未開社会で行われるシャーマンによる呪術の代わりに、神社では怨霊を鎮めるために神として祀った[78]。死を霊魂の永久離脱として他界に赴くが、死霊や動物霊は定められたときにこの世を訪れ、人に憑いて健康を損なわせるとされる。狐憑き、ヤコツキ、オサキツキは動物霊憑依の例である[79]

未開社会において特定の氏族、部族が自然現象・自然物や動植物と超自然的関係で結ばれることをトーテムと呼ぶ[80]南方熊楠は、大物主トーテムとした[81]

神道はアニミズム的宗教であり、その特徴の一つに祭政一致がある[82]。祭政一致は英語ではSaisei itchiとしてそのまま神道の用語として用いられており[82][83][84][85]柳川啓一は祭政一致を職業聖職者が直接統治を行う神権政治とは異なるものとして定義した[86]


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