神輿は本来、その神社の氏子によって担がれるものであるが、担ぎ手の不足や町おこしなどの理由により氏子以外の参加を認めるケースが都市部を中心に増えている。そのため、外部の応援団体(有志の神輿会)が地元のルールを知らない・軽んじる、などの一因で問題が生じないよう留意すべきである。
また、三社祭の宮出し等で見られる、担ぎ棒に乗るという行為も「神様が鎮座する神輿の上に人が乗るとは何事だ」という否定的意見と、「神輿渡御を安全に誘導する為には仕方がない」「祭礼運営への貢献のお礼」などといった肯定的意見の論争が見られるが、概ね世間の評価は否定的である。東京都では迷惑防止条例で神輿に乗る行為は禁止されており、6月未満の懲役または50万円以下の罰金が科せられる。
神輿の扱いは地域によって違い、上から見下ろすことさえ禁じられている所もあるので、参加する場合はその地域の規則を熟知するということが大切である(逆に、神輿をわざと高い位置から落とす祭礼もある)。 2019年9月20日、神奈川県警察は、県内の4つのみこし会代表が祝儀名目で指定暴力団稲川会系組幹部に現金を渡していたとして双方に対し、暴力団排除条例に基づき中止の勧告を行った[32]。 諸説あるが、そのうちの1つとして以下のような説がある。狩猟と採集による移住を繰り返した時代に行われた収穫祭の祭壇が起源で、このときは祭りが終わると神輿は取り壊され、毎年新たな神輿を作って天上の神を招いていた。農耕が始まり人々が定住するようになると、神に対しても定住が求められるようになり、居所としての神社が誕生した。そして神の乗り物として神輿が継承され現在のような形になった。 この説を採用した観光協会等において、外国人観光客に対し神輿は「持ち運び可能な神社」[注 3]と説明されることが多い。 文献上での初出は、養老四年・天正天皇6年(720年)、隼人征伐の際大神比義命(おおがのひぎのみこと)の子孫、宇佐八幡宮の神官、祝の大神諸男が八幡神が乗った御神輿に付き添い、禰宜の大神杜女が御杖代、同じく禰宜の辛島波豆米 奈良時代の元正天皇の治世、養老4年(720年)九州で起こった「隼人の乱」にあるという。同年2月九州南部の大隅・薩摩に住む隼人は、大隅国守・陽侯麻呂を殺害して反乱を起こした。朝廷は歌人としても有名な大伴旅人を征隼人持節大将軍に任命し、1万を超す軍隊を派兵した。この時、朝廷は宇佐八幡宮に勅使を派遣し、国家鎮護と隼人討伐を祈願した。当時は、今の大分県宇佐市小倉山でなく、近くの小山田に鎮座していた八幡神は、この願いに応じ、「われ征きて降し伏すべし。自ら神軍を率いて隼人討伐に赴く」と託宣を下した。朝廷は豊前国司(ぶぜんこくし)宇努首男人(うぬのおびとおひと)に命じ、八幡神の神霊が乗る神輿を作らせた。『八幡宇佐宮御託宣集』によれば、「豊前国司に仰せつけられ、初めて神輿を作らしむ」とある[要出典]。 聖武天皇が奈良に東大寺を建て、毘盧舎那仏(奈良の大仏)を建立して国の象徴として建設にあたる時、天平勝宝元年(749年)に、これを助けるために、宇佐八幡神は、屋根に金色の鳳凰が輝く天皇の乗り物(鳳輦)に乗って奈良の都へと渡御した。この鳳輦こそが、1300年の歳月を経て今に伝わる神輿の原型である。 平安時代になると、近江の日吉大社や京都の祇園社(現・八坂神社)・今宮神社・北野天満宮や、大阪の大阪天満宮などでも神輿が作られた。鳳輦をもとにして、これに魔除けの巴紋や神紋を飾り、ミニチュアの神社のように鳥居や玉垣、高欄などが付けられた。こうして、主に奈良・京都を中心にして神輿が一般化された。 以下は江戸(東京)の話であるが、本来神輿は神社から1台が(宮神輿)、山車は町内から出るもので、通常、神輿のいち形態ではなく、神輿とは別物である[34]。また山車は市中に電線が貼られた都合などから明治中期以降は運用が難しくなった[35]。このため神社より町神輿へ分祀を行い、山車の代わりに町神輿が巡行するようになった[35]。この風習は近隣地域にも広がった[35]。なお太平洋戦争中は兵員の召集による担ぎ手不足や金属供出などのため、そして戦後は空襲による焼失などのために一度神輿は減少したものの[36]、その後1953年-1960年にかけて神輿の新調ブームが起こったと言う[37]。
全国共通注意事項
無断で他の神輿に触らない。(緊急時は除く)
神輿の前で写真を撮る時などは声を掛ける。
氏子優先。他社の地区を渡御している時はそこの氏子神輿・神社方針が優先。
本社神輿優先。仮に氏子地区内に他社本社神輿が来た場合でも氏子の町会神輿が針路を譲る。
すれ違う際は被り物(頭に巻いた手ぬぐいなど)を取り、弓張り提灯を掲げ拍手をするのが望ましい。
高い所からあからさまに見下ろさない。(少なくとも担ぎ手から分からないように)
みこし会と暴力団
神輿の起源
各地方の神輿
江戸(東京)の神輿
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 北海道江差町の姥神大神宮渡御祭における御輿の担ぎ棒には真綿が使われていることが確認できている。
^ 角型と言っても身体に触れる部分なので、角材のような直角ではなく、面取り済みである。
^ 英: portable shrine
出典^ a b 宮本 2011, p. 17.
^ 神田祭400年ご遷座、p40、神田祭と神田明神を知るための本 平成27年版、ISBN 978-4-902583-06-9
^ 神道いろは p121 ISBN 4-915265-99-4
^ ISBN 4-901577-01-8 P255、256 。神社への誘い(現代口語の対話式で書かれた本)
^ ⇒万燈神輿
^ https://www.youtube.com/watch?v=H4U2Whqx_Ak
^ 宮本 2011, p. 18.
^ 宮本 2011, p. 19,95.
^ 神田祭400年ご遷座、p17、神田祭と神田明神を知るための本 平成27年版、ISBN 978-4-902583-06-9