神谷明
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声種は「明るく澄んだハイバリトン[7]」。声域はG - F[7]。幅広い役どころを持ち、高音から低音まで使い分ける[37]

神谷本人によると、最初は少年役から始まり、『うる星やつら』で「二枚目と三枚目の同居した」面堂終太郎役を演じたことが『キン肉マン』の主演へとつながったといい、その後『シティーハンター』の冴羽?役が「集大成」となったという[38]

テアトル・エコー時代から、人間的に愛すべきキャラクターやギャグを演じたいと思っており、面堂を演じていた時には「あんなかっこいいのに、バカだこいつ」と感じ、嬉しかったという[39]。三枚目を演じたいという夢は『キン肉マン』で実現し、もう一つの渋い二枚目を演じるという夢は『北斗の拳』のケンシロウ役で実現することになった[39]

遡って第2次声優ブームを牽引する人気声優となってからしばらくは、人気に実力が追いつかない時期が続いた。当時ニ枚目の主役を張りながら、自分が手本にしてきた先輩声優たちのレベルにまだまだ達していないことに悩んでいたという[注釈 2]。1981年の『うる星やつら』の面堂終太郎役で三枚目の芝居を思い切り演じたことが悩み払拭に繋がった[注釈 3]。その後『キン肉マン』や『北斗の拳』などでさらに演技の幅を広げていったことで、名実ともに声優界のトップランナーとなった[23]

超スーパーカー ガッタイガー』のエリック・ベルゲン役で初の悪役を担当[40]1999年には特撮ドラマ『ボイスラッガー』に敵組織の幹部キャラクター「将軍γ」役として素顔で出演したこともあった。

吹き替えでは、海外ドラマ『探偵レミントン・スティール』や『007』シリーズ、『ダンテズ・ピーク』などでピアース・ブロスナンの初期作品を担当した。ブロスナン主演作は田中秀幸(神谷とは『ドカベン』以後たびたび相棒役で共演)に引き継がれ、ジェームズ・ボンド役をビデオ/テレビ版で分け合ってもいる。

CMやバラエティ番組などでナレーションを手がけることも多い。代表的なものは、「スーパー戦隊シリーズ」枠を中心に放送されている東京ドームシティアトラクションズ(旧後楽園ゆうえんち)のヒーローショーのCMであり、1985年より20年以上にわたってナレーションを担当。

1970年代から80年代に活動した声優バンド・スラップスティックに、結成当初はベーシストとして在籍していた。だがスケジュールの多忙や、本来アマチュアとして和気藹藹と楽しんでいた演奏がプロの活動としてプロデュースされることに懸念を示し、脱退している。

2017年まで日本工学院専門学校(蒲田校・八王子校)で講師を務めていた[15][41]。教え子には新谷良子清水愛などがいる。高校進学前の新谷がもう一つ、思い直したきっかけで雑誌『アニメディア』の中で神谷のインタビュー記事に、「今、やれることをしておきなさい」という言葉があり、すごく心に残り、「やっぱりちゃんと高校へ行こう」と思い直したと語る[42]。新谷が専門学校の体験入学時に神谷と出会い、あまりアニメなど無知だった新谷の母でも、神谷は知っていたと語る[43]。新谷が専門学校に入学して最初に神谷に「とにかく大声出せ」と言われた言葉が印象的だった[44]。新谷は大声を出すと、とりあえず緊張が取れるようになったと語る[44]。新谷は専門学校在学中にラジオにも出演されたりしていたが、番組アイドル募集と書かれた告知を見たため、「アイドルは考えられないな」と思い、当初は応募しようとしなかった[44]。しかし神谷が「応募してみろ」と背中を押して新谷は「それならがんばってみよう」と応募したと語る[44]

HTB制作の深夜バラエティ番組『水曜どうでしょう』の大ファンである。

趣味は写真狂言ドライブパソコン[7]
仕事に対する姿勢

「声優」と呼ばれることについて、当初は舞台俳優出身だったことから抵抗があったが、キャリアを積むうちに抵抗は消えプライドを持つようになったという[3]。また、声優呼ばわりを嫌悪する人物に対して「声優ではなく俳優と言ったところで、実際に自らの生計を立てたのが声の仕事なら、それはやっぱり『声優』なんです。自分でいくらそう言ったってプライドだけの問題。そんなプライドは持たない方がいい」と発言している[3]。ただし、声優志望者に対しては「基本の演技がしっかりしていないと、後で自分が困る」「声優としての独特な演技法があるように思われがちですが、それはまったく間違いで、基本的に俳優と同じ。できれば自分の体を使って表現できることを、しっかり学んでほしいと思います」と語っている[28]

また、古川登志夫によると「第二次アニメブームが起きる前の先輩方の中には、“声の仕事は俳優として食えない連中がやるもの”という雰囲気があった。でもアニメブームで声優の仕事が増えてきた頃、神谷さんは僕にこう言ったんです。『音楽活動が中心の人は周りからミュージシャンと呼ばれる。声の仕事が中心の自分たちが声優と呼ばれて何を恥じることがあるんだ』と」[23]

仕事に対する姿勢や演技に関しては、ブログやインタビューなどで多くの先輩や声優仲間から影響を受けていることを明かしている。特に、テアトル・エコー所属時代に指導を受けた山田康雄納谷悟朗熊倉一雄などの名前が挙がることが多い。

声優としての醍醐味は「姿形にとらわれず、動物植物鉱物空気天体に至るまで、森羅万象あらゆるものに変身できる」ことだといい、それが一番楽しいところだと述べている。

アニメでの役作りについては、台本でイメージだけを作り、絵を見た第一印象で声を決めるという[45]

生涯現役でいたい趣旨の発言をしている[45]
交友関係

槐柳二とは近所付き合いで、若い時に仕事先を推薦してもらったことがある[46]

古川登志夫とは共演が多く、『うる星やつら』『北斗の拳』など様々な作品でライバル役を演じたことで、互いに「戦友」と呼びあっている[47]

内海賢二のことは「大好きな先輩」[48]、「本当に可愛がっていただきました」と語っており、数多くの作品で共演した[49]。内海の訃報の際には「時には厳しく、また時には優しく、人としての生き方も教えてくださいました」「『北斗の拳』の収録で、人間として、役者として大きく成長出来たのは内海さんのおかげ」と感謝の言葉を述べている[49]

たてかべ和也のことは「新人のころから兄弟のように接していただきました」「カベさんから後輩を大事にすることを学びました」と語っており、プライベートでも事あるごとに相談をしていたという[50]。神谷本人によると、後年たてかべに「僕が新人の頃、どうしてあんなに良くしてくれたんですか?」と聞いたところ、「おまえはな、子供の頃から苦労してきただろう?そいつがどこまで頑張るか、オレは見たかったんだよ」と告げられたという[23]

富田耕生とは『ゲッターロボ』の時からレギュラーで共演しており、神谷は前述のとおり父がいないことから、富田を「オヤジ」と呼んでいた[25]

富山敬とは『ふしぎなメルモ』で始めて共演させてくれた時の印象が鮮明に残っており、それ以降の『バビル2世』、『荒野の少年イサム』を演じる時の支えになっていたという[25]

好きな先輩俳優としては富山、八奈見乗児、富田などがおり、1978年時点ではそれらの人物たちの芝居を見て、いつも「何か盗んでやろう」と思っているという[25]


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