しかし、文覚は復興をより進めようとして承安3年(1173年)に後白河法皇に荘園の寄進を強要し、返って法皇を激怒させてしまい、伊豆国に流されることとなった。その伊豆国で文覚は流人の身であった源頼朝に平氏への挙兵を迫ったという。文覚は、高倉天皇の中宮・徳子の皇子(後の安徳天皇)出産にともなう恩赦によって治承2年(1178年)に許されるが、配流の期間中は再建事業は事実上中断される[2]。
寿永元年(1182年)11月21日に文覚は蓮華王院に滞在中の後白河法皇に再び直訴を試みる。今回は法皇は訴えを聞き入れて荘園の寄進を行い、更に源頼朝の援助を受けて再建事業が再開される[2]。文覚は神護寺再建事業の傍ら、頼朝と法皇の連絡役を務めるなどの政治的活動を見せている。文治6年(1190年)2月には法皇の神護寺行幸が実現された。ところが、余りにも政治に関与しすぎた文覚は源頼朝の死の直後に発生した三左衛門事件に関与したとして後鳥羽上皇や源通親によって佐渡国に流された[2]。通親の死後の建仁2年(1202年)には許されて京に戻るが、翌建仁3年(1203年)[3]もしくは元久2年(1205年)[2]には今度は対馬国(隠岐国とする説もある)に流され、配流先で生涯を終えることになる。後鳥羽上皇は神護寺を延杲に与え、神護寺の所領を没収して女房や近臣達に全て分け与えてしまったとされている[4]。
承久3年(1221年)、承久の乱によって後鳥羽上皇が配流され、兄の守貞親王が非在位のまま治天の君となって後高倉院として院政を開始する。後高倉院は文覚と繋がりが深かったらしく、乱の直後に弟子の上覚(上覚房行慈)に没収された神護寺領を与えると、神護寺再興が命じられる。
嘉禄元年(1225年)に明恵を導師として伝法会が修された[2]。翌嘉禄2年(1226年)に再興事業は完遂され、3月には亡くなっていた後高倉院の妻であった北白河院を招いて「高雄惣供養」と呼ばれる大法要が行われた。その年の10月に上覚が亡くなっている。ただし、この間も必ずしも円滑だったわけではなく、北白河院は甥である宗全(持明院基宗の子)を神護寺の別当に据えて上覚から実権を剥奪し、宗教的な基盤の乏しい後高倉院の皇統のための御願寺にしようと図った。更に宗全は藤原隆忠の子聖基をその後継者に指名しようとした。上覚はこの動きに激しく反発したが、後高倉院亡き後は北白河院が最大の支援者であったことやそして上覚自身の寿命によって、宗全に実権を奪われることになった。しかし、御願寺化の構想は北白河院の実子で上覚の理解者であった道深法親王の反対や後高倉院の皇統そのものの断絶によって失敗に終わっている[4]。なお、鎌倉時代に華厳宗を復興し、高山寺を中興した僧・明恵は上覚の甥で、やはり神護寺に住したことがあった。 神護寺は鎌倉時代末期に後宇多天皇が空海ゆかりの寺院であることを理由に保護を与え、その子である後醍醐天皇からも重んじられた[4]。 その後、天文年間(1532年 - 1555年)に兵火に掛かって全焼したが[2]、元和元年(1615年)に讃岐国の屋島寺から龍厳
中世後期以降
しかし、明治時代になると廃仏毀釈によって9つの支院と15の坊は破壊され、別院2ヶ寺と末寺の全てが他寺に移され、衰微した[2]。
1874年(明治7年)には和気清麻呂を祀っていた護法善神社が護王神社と改称され別格官幣社に列せられ、1886年(明治19年)に現在地である上京区桜鶴円町に移されている[5]。
1935年(昭和10年)に実業家の山口玄洞により新たな金堂[6]や、多宝塔、龍王堂、和気公霊廟、茶室が寄進されている。
1952年(昭和27年)には寺領の一部が境内地として政府より返還されている[2]。 周山街道の「山城高雄」バス停から清滝川を渡り、徒歩約20分、長い石段を上った先に神護寺の楼門が西を正面として建つ。楼門を入ると山の中腹を平らに整地した境内が広がり、右手に書院、和気公霊廟、鐘楼、明王堂が建ち、その先には五大堂と毘沙門堂が南向きに建つ。毘沙門堂の後方には大師堂がある。五大堂北側の石段を上った正面に金堂、その裏手の一段高いところに多宝塔が建つ。境内西端には地蔵院がある。
境内
金堂 - 1935年(昭和10年)に山口玄洞の寄進により再建[7]。楼門を入って境内奥へ進み、右手の石段を上った先に建つ。入母屋造、本瓦葺きの本格的な密教仏堂である。須弥壇中央の厨子に本尊薬師如来立像(国宝)を安置し、左右に日光菩薩・月光(がっこう)菩薩立像(重要文化財)と十二神将立像、左右端に四天王立像を安置する。
龍王堂 - 1935年(昭和10年)に山口玄洞の寄進により再建。
多宝塔 - 1935年(昭和10年)に山口玄洞の寄進により再建[8]。金堂からさらに石段を上った高みに建つ。内部に国宝の五大虚空蔵菩薩像を安置する(毎年5月と10月に各3日間ほど公開)。
表門
五大堂 - 元和9年(1623年)建立[9]。金堂へと上る石段の下に建つ。入母屋造の三間堂。現在の毘沙門堂が当寺の金堂であった時代、五大堂は講堂であった。
毘沙門堂 - 元和9年(1623年)建立。五大堂の南に建つ。入母屋造の五間堂。1935年(昭和10年)に現在の金堂が建てられる前はこの堂が金堂であり、本尊の薬師如来像もここに安置されていた。内部の厨子に平安時代の毘沙門天立像(重要文化財)を安置する[10]。
大師堂(重要文化財) - 近世初期に細川忠興の寄進による再建[11]。毘沙門堂の西側に建つ入母屋造、?(こけら)葺きの住宅風の仏堂。空海の住房であった「納涼房」を復興したもの。内部の厨子に正安4年(1302年)作の板彫弘法大師像(重要文化財)を安置する(大師像は秘仏で、11月1日 - 15日のみ開帳)。
地蔵院 - 江戸時代に塔頭として創建されたが後に廃れ、1900年(明治33年)に再興された[12]。ここから、渓谷「錦雲渓」に向かって厄除けのかわらけ投げを行うことができる[13]。
文覚上人の墓
性仁法親王の墓
明王堂 - 天慶2年(939年)に平将門の乱が勃発した時に、朱雀天皇は嵯峨天皇の勅命により弘法大師空海が刻して神護寺の護摩堂(明王堂)に奉安されていた不動明王像を、遍照寺の寛朝大僧正に命じて下総国公津ヶ原(現・千葉県成田市並木町)の堂宇に捧持させ、三七日(21日間)朝敵調伏の護摩を修せしめた。