神聖賭金訴訟
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紀元前287年のホルテンシウス法は、平民会[注 9]の決議[注 10]に全市民を拘束する権限を与え、以後平民会は大きな権限を持つようになった。平民会が議決した最初の法は、紀元前286年のアクィリウス法であり、これは他人の奴隷または大型の家畜を不法に殺害した者に一定の銅貨を支払うべきことを定め、不法行為法の原点とされている。

十二表法は、その制定当時に既に存在していた慣習法を変更することを意図した個別的な規定をいくつも集めたものであるが、これらの規定の中で最も大きな部分を占めるのは、私法と民事訴訟に関するものであった。そのためローマ法は私法を中心に発展していくことになる。もっとも十二表法は、あらゆる法分野に関係しており、これをなるべく広く柔軟に解釈していくことによって妥当な結論を得ようとする傾向を生み出した。そのため、「十二表法はすべての法の源である。」[注 11]と言われた。

ローマのヨーロッパ法文化に対する最も重要な貢献といえるのは、よく練られた成文法が制定されたことではなく、ギリシャ哲学の科学的方法論を法律問題(ギリシャ人自身はこれを科学として取り扱ったことはなかった)に適用するヘレニズム法学と呼ばれるローマ法学の成立と専門家集団としての法律家の出現である。

ローマ法学の起源はグネウス・フラウィウスの伝説に求められる。フラウィウスの時代の前には、法廷において訴訟を開始するために用いるべき術語を集めた式文集は秘密のもので、神官にしか知られていなかったといわれている。フラウィウスは、紀元前300年ころ、これを盗み見て式文集を出版し、以後、神官でなくてもこれらの法的文書を探求することができるようになったとされている。この伝説が信用できるか否かはともかく、紀元前2世紀には、法律家の活動が盛んになり、法学論文が多数書かれるようになったのは事実である。共和政時代の有名な法律家の中には、 法のあらゆる側面についての膨大な論文を書き、後世に多大な影響を与えたクィントゥス・ムキウス・スカエウォラや、キケロの友人であったセルウィウス・スルピキウス・ルフスがいる。それ故、紀元前27年共和政ローマが倒れ、代わって元首政という独裁体制が成立したころには、既にローマには非常に洗練された法制度と一新された法文化が存在していた。
古典期前

おおよそ紀元前201年から紀元前27年までの間には、法が時代の必要に合わせてより柔軟に発展していった。第二次ポエニ戦争で勝利したローマは、その勢力の拡大と共に外国人に関する法律問題に対処する必要が生じたが、古い形式的な「市民法」はこれに対処することができなかった。十二表法で定められた民事訴訟手続は、ローマ市民のみに適用され、確定文言によって訴権を定める厳格な形式性・保守性を特徴とする儀礼的なもので、一度間違えるとやり直しがきかず、原告が敗訴するという硬直性を有していた。

このような必要に応じて法務官法(英語版)[注 12]ないし名誉法[注 13]が登場すると、古い形式主義を修正する万民法[注 14]という新しいより柔軟な原理が採用された。新たな必要に法を適応させてゆくという方法論は、法律実務や公職者、そして特に法務官にはすっかり定着した。法務官は立法者ではなく、告示[注 15]を発する場合にも、技術的には新しい法を創造したわけではなかった。しかし、実際には、法務官が判定した結果は法律上保護され(訴権の付与)、事実上新しい法規制の源となることもしばしばあった。後任の法務官は前任の法務官の告示に拘束されなかったが、前任者の告示が有用なものであることが明らかになれば、後任者もその告示を援用して判定を示していた。このようにして永続的な内容が創造され、告示から告示へと受け継がれていった[注 16]

こうして、時代の流れを超えて、法務官法という新しい体系が登場し、市民法と併存しながら、これを補充し、修正していた。実際にも、有名なローマ法学者アエミリウス・パーピニアーヌスは、法務官法を次のように定義した。「法務官法は、市民法を公共の利益のために補充し、あるいは修正するために、法務官によって導入された法である」[注 17]

やがて方式書訴訟は、ローマ市民にも適用されるようになっていき、十二表法で定められた形式的な民事訴訟手続は廃止され、後に市民法と法務官法は市民法大全において融合するに至る。
古典期

紀元前50年ころから紀元後230年ころまでを古典期という。紀元前27年、オクタウィアヌスが元老院からプリンケプス(元首)として多くの要職と「アウグストゥス」(尊厳なる者)の称号を与えられると、共和政の名目の下、帝政が開始する。アウグストゥスは、極めて優秀と認められる法学者に回答権[注 18]を与え、このことがローマ法とローマ法学の発展を促した。この時代の最初の250年間は、ローマ法学が最高度に達し、完成をみた時期である。この時期の法律家が文章と実践の両面で到達した成果がローマ法の独特の姿を形作っている。

3世紀になると、民会による立法はその重要性をほぼ失い、皇帝による勅法が重要な法源となっていった。その際、法律家は様々な役目を果たし、彼らは民間の訴訟当事者の求めに応じて法的意見を述べた。彼らは裁判を運営することを任された公職者(その最も重要な者が法務官)に助言した。法務官は、その在任期間の最初に公布する告示において、その任務をいかに遂行するのか、及び特定の手続を運営する準則となるべき式文集を明らかにしたが、法律家は法務官のこの告示の起草に助力した。法律家の中には、自ら裁判部門や行政部門で高位に就く者もあった。

法律家は、あらゆる種類の法注釈書や取決めも産み出した。130年ころ、ハドリアヌスの命によってサルウィウス・ユリアヌスは『永久告示録』を編纂し、これ以降の法務官は全てこれを用いることとなり、法務官法はその発展を止めた。この告示は、法務官が訴訟を許し、答弁を認めるあらゆる事例の詳細な説明をその内容としていた。そのため、この標準告示は、公式には法としての強制力を持たなかったけれども、包括的な法典にも似た機能を果たすことになった。そこに法的申立てを成功させるために必要な条件が示されていたからである。この告示はそれ故ユーリウス・パウルスドミティウス・ウルピアヌスのような後代の古典期法学者が法注釈書を拡充する際の基礎となった。

古典期前や古典期の法学者が発展させた新しい概念や法制度は枚挙にいとまがない。ここではそのうちいくつかを例として挙げる。

ローマ法学者は物を利用する法的権利(所有権)とそれを利用したり操作することができる事実上の能力(占有)とを明確に分離した。また、彼らは、法律上の義務の原因としての契約と不法行為との間の区別を見出した。

大陸法系の法典に規定がある契約の標準類型(売買、雇用契約、貸借、役務契約。日本の民法学では有名契約という)とこれらの契約相互間の特徴付けはローマ法学によって進められた。

古典期の法律家ガイウス160年ころ)は、あらゆる問題を「ペルソナ」()と「レス」()と「アクチオ」(訴権訴訟)に区分し、この区分を基礎として私法の体系を発案した。この体系は何世紀もの間用いられた。その業績は、ウィリアム・ブラックストンの『イングランド法注解』のような法書やナポレオン法典の制定にも影響を及ぼしている。日本の民法総則や商法において「人」「物」「行為」(ただし、商法には「物」はない)の順で条文が分類され並んでいるのもこの影響である。

紀元後212 年にカラカラ帝が帝国内の全住民にローマ市民権を拡大すると、市民法・万民法という区別はその意義を失ったが、それは現状を追認しただけでほとんど変化は感じられなかった。外国人に対するローマ市民権の付与という名目とは逆に、実際には、自然法ともいうべき合理性・公平性を有するに至った万民法がもともとのローマ市民に適用されていくという歴史を辿ったからである。
古典期後

3世紀中葉から、ローマ帝国では、法文化の刷新が次々に進むような条件が揃わなくなり始めた。皇帝は政治生命のあらゆる場面で親政の強化を目論み始め,政治的・経済的状況が全般的に悪化し、共和政体の特徴をいくらか留めていた元首政という政治制度も、君主政という絶対君主制に変容し始めた。法学や法を、絶対君主が設けた政治的目標を達成するための道具ではなく、学問とみなす法律家の存在は、新秩序にはうまく適合しなくなり、著作はほとんど書かれなくなった。3世紀中葉以降の法学者で名前が知られている者は少ない。

395年にローマ帝国が東西に分裂すると更に西方ではローマ法は衰退していった。法学と法教育は帝国の東側である程度続いたが、476年にゲルマン人の一支族であるフランク人が西ローマ帝国を滅ぼすと古典期の法の精妙な議論は軽視され、ついには忘れ去られた。古典期の法はいわゆる卑俗法[注 19]に取って代わられた。ガイウス、ウルピアヌスなど古典期の法律家の著作やテオドシウス法典はまだ知られていたものの、その内容はあまりに高度であると考えられ、ゲルマン的慣習に適するように書き換えられてしまった。その結果、アラリック抄典などが編纂された。
ユスティニアヌス法成立期

東ローマ帝国においては、古代ローマ帝国最後の皇帝であるユスティニアヌス帝が市民法大全を創造した。ユスティニアヌス1世は法務長官トリボニアヌスをはじめとする10名に、古代ローマ時代からの自然法および人定法(執政官や法務官の告示、帝政以降の勅法を編纂させ、完成した『旧勅法彙纂』を529年に公布・施行した。ついで、トリボニアヌスを長とする委員に法学者の学説を集大成させた。これが533年に公布された『学説彙纂』である。これと同時に、初学者のための簡単な教科書『法学提要』も編纂させ、これまた533年に公布・施行された。このあと、新しい勅法が公布されており、かつ『学説彙纂』や『法学提要』の編纂によって、『旧勅法彙纂』を改定する必要が生じた。ユスティニアヌス帝はトリボニアヌスをして新たに勅法の集成を命じた。これで生まれたのが『勅法彙纂』であり、534年に公布・施行された。
ユスティニアヌス法成立期後
東ヨーロッパのローマ法


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