神聖賭金訴訟
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中世ローマ法学の祖となったのはイルネリウス[注 21]であり、難解な用語を研究し、写本の行間に注釈を書いたり[注 22]、欄外に注釈を書いたり[注 23]したことから註釈学派と呼ばれた。ボローニャ大学でローマ法を教えられた学生達は、皆ラテン語を共通言語に、後にパリ大学オクスフォード大学ケンブリッジ大学などでローマ法を広め、西欧諸国に共通する法実務の基礎を築いた。

14世紀から15世紀にかけてバルトールス・デ・サクソフェラートを代表とする註解学派と呼ばれる一派がおこり、「バルトールスの徒にあらざるものは法律家にあらず」とまで言われた。彼らは、ローマ法の多くの規範が、ヨーロッパ中で適用されていた慣習的な規範よりも、複雑な経済取引を規律するのに適していることに着目し、推論によって抽象的な原理を導き、当時の経済状況に合わせた自由な解釈を行なった。このため、ローマ帝国の滅亡から何世紀も経った後に、ローマ法や、少なくともそこから借用した条項が、再び法実務に導入され始めた。多くの君主や諸侯がこの過程を活発に支援した。彼らは、大学の法学部で訓練を受けた法律家を顧問や裁判担当官として雇い入れ、例えば、有名な「元首は法に拘束されない」[注 24]といった法格言を通じて自らの利益を追求した(参考:主権)。中世においてローマ法が選好された理由はいくつかある。それは、ローマ法が、財産権の保護や、法主体及びその意思の対等性(特定の富裕者、大企業、権力者といった強者とそれ以外の弱者との間の契約であっても、強者の意思が弱者に優越するというものではないというイメージで捉えられたい。)を規定していたからでもあるし、ローマ法が遺言によって法主体が財産を随意に処分し得る可能性を規定していたからでもある。このように発展してきたローマ法が教会法やゲルマンの慣習、特にレーエン法と呼ばれる封建法の要素と混交された結果、ある法制度が出現した。この法制度は、大陸ヨーロッパの全域(及びスコットランド)に共通のものであり、ユス・コムーネと呼ばれた。このユス・コムーネやこれに基礎をおく法制度は、通常、大陸法[注 25]として言及される。

16世紀中葉までに、再発見されたローマ法はほとんどの西欧諸国における法実務を支配するに至り、ローマ法の継受がされた。教会法とローマ法の博士をとったものは「両法博士」[注 26]と呼ばれ大きな影響を持った。特に現在のドイツでは、広範な地域で、ドイツ法に強い影響を与えたため、これを「包括的継受」[注 27]という。17世紀になると、ドイツでは、ローマ法が自国内の各領邦に共通に適用される普通法[注 28]として強い影響を与えるとともに、各領邦の社会情勢に応じて自由にローマ法を解釈するようになり、このような解釈態度は「パンデクテンの現代的慣用」[注 29]と呼ばれた。

イングランドだけは、ローマ法を部分的に継受するにとどめた。その理由の一つは、ローマ法が再発見された当時、イングランドでは既にコモン・ローが成立し、発展を始めていたという事実である。ローマ法が神聖ローマ帝国カトリック教会絶対主義を連想させるというのも一つの理由にあげることもできるが、英国法の歴史から明らかなように、スコットランドがイングランドに対抗するという理由から大陸法を継受したという事実がイングランドにとってローマ法をますます受け入れ難いものとした。 この結果、イングランドの制度であるコモン・ローは、ローマ法を基礎とする大陸法と並立して発展していった。とはいえ、「先例拘束の原則」のようにローマ法由来の概念もコモン・ローに入って来ている。特に19世紀初頭、ウィリアム・ブラックストンのように、イングランドの法律家や裁判官は意識的にヨーロッパ大陸の法律家や直接ローマ法から規則や発想を借用しようと努めた。また、イングランドの「海事裁判所」はコモン・ローを使わず、ユス・コムーネを使用していた。

フランスでは、16世紀になると、ルネサンス・人文主義を思想的背景に、文献学的・歴史学的にローマ法大全の古典古代の法文を厳密に探求することを掲げる人文主義法学と呼ばれる一派がおき、バルトールス学派を批判した。また、神聖ローマ帝国に対抗するという政治的な理由から早くからローマ法の影響を脱し、独自のフランス法が発展をみていたが、1804年フランス民法典が施行されると、19世紀のうちに、多くのヨーロッパ諸国では、フランス法を模範として採用するか、自国固有の法典を起草するかのどちらかになって国家が法典化に乗り出した時に、ローマ法を実際に適用する動きや西欧流のユス・コムーネの時代は終わりを迎えた。

もっとも、当時のドイツは、各領邦が分裂した政治的状況にあったため、統一的な法典を制定することを主張するゲルマニステンと反対派のロマニステン法典論争がなされたが、結果的には、ドイツ民法典[注 30]が1900年に施行されるまで、原則的には普通法たるローマ法が適用され続けた。

日本は明治期に主にドイツを経由して大陸法を継受したので、日本法は、間接的にローマ法の強い影響を受けている。
解説

ここではローマ法の重要概念のいくつかを解説する。
市民法、万民法、自然法
ius civile (市民法)

「市民法」 (: ius civile)とは、元来は「ius civile quiritium」と呼ばれ、ローマ市民に共通して適用される法の体系であった。市民法のうちでも特別法 (: ius singulare)は、何らかの人やもの、あるいは法的関係に対して適用される、一般的な通例の法[注 31]とは異なる特別な法のことである(「特別」というのは、それが法制度の一般的な原理に対する例外であるからである)。その例として、遠征中に軍務についた人が書いた遺言に関する法がある。この場合、通常の環境下で市民が遺言を書く場合に要求される厳格な形式が免除される。
ius gentium (万民法)

万民法」 (: ius gentium)とは、外国人同士の問題や外国人とローマ市民との間の取引に共通して適用される法の体系である。都市法務官[注 32]も、市民が当事者になった紛争について裁判権を有する人々であったが、ローマは、その勢力の拡大と共に、ローマ市民と外国人との取引が増えるに連れて、新たに市民と外国人が当事者になった紛争についての裁判権を有する外事法務官[注 33]との官職が設けられ、万民法がもともとのローマ市民に適用されていった。それは、万民法こそ古拙な宗教的性格を特徴とした古めかしい市民法を乗り越えた経済的合理性を有していたからである。
ius naturale (自然法)

万民法と共通性を有しつつも少し異なる観点の「自然法」 (: ius naturale)という概念もある。ガイウスは、何故「万民法」は帝国内に住むあらゆる人に受け入れられているのかを考えた。その結論は、これらの法は人間の自然な理性[注 34]に沿ったものであり、それ故に皆が従うのだというものであった。そこで、通常の人間の理性に沿った万民法を「自然法」と呼んだ。ウルピアヌスは、自然法と万民法を区別し、奴隷制は「万民法」の一部ではあっても、「自然法」の一部ではないとした。当時奴隷制は帝国全土のみならず、様々な国で認められるごく普通の制度であったが、それは、人間固有の制度であって、全ての動物に共通する自然法でない。それゆえ奴隷は万民法に従って解放されると、自然の状態に戻って自由を取り戻すことができると考えられた。
公法と私法

公法[注 35]はローマ国家の利益を保護するのに対して、私法[注 36]個人保護すべきものである。ローマ法においては、私法には、身分法財産法、民法及び刑法が含まれ、訴訟は私的な手続であった[注 37] 。犯罪も私的なものだった(国家が訴追するような最も重大なものは除く)。公法は私法の中でもローマ国家に密接に関わり得るような領域のものだけを含んでいた。ローマは、その勢力の拡大と共に、ローマ市民と外国人の法的紛争に対応する必要が生じ、そのため私法を中心に法学が発展していった。そこでは、ローマ市民であると、外国人であるとを問わず、お互いに対等な立場にある個人の意思を出発点とした抽象的な法理論が発展した。近代法の特徴とされる故意責任過失責任の区別がなされたのも古代ローマに遡ることができる。

公法は遵守が義務づけられた法的規制を表現するためにも用いられた。今日では強行規範[注 38]と呼ばれる。これらは、当事者間の合意で変更したり排除したりすることができない規制である。変更できる規制は、今日では任意規範[注 39]と呼ばれ、当事者が何かを共有し、かつ対立していない場合に用いられる。このような区別がなされるのも個人の意思を中心に法体系をつくるローマ法の理論に基づく。
不文法と成文法

不文法[注 40]と成文法[注 41]とは、文字通りにいえば、それぞれ書かれていない法と書かれた法をいう。


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