神聖ローマ皇帝
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当時の西ヨーロッパはコンスタンティノープルのローマ皇帝(東ローマ皇帝)を宗主として仰いでいたが、ローマとギリシャの間には宗教的対立が起きていた。折しもギリシャでは皇帝コンスタンティノス6世が母エイレーネーによって廃位させられ、エイレーネーが自ら史上初のローマ女帝として君臨していた。ローマ教皇はこれを認めず独自の皇帝としてカール大帝を擁立したのである。

新たな帝位の確立は西ヨーロッパがギリシャから完全に独立したことを示していた。帝位はカトリックと密接に結びついており、また神聖ローマ皇帝であるからにはイタリア王であることを前提とした。カール大帝の帝国は後に分裂したが962年に東フランク王国、すなわちドイツ国王であるオットー1世がイタリア王を兼ねて神聖ローマ皇帝として戴冠し、それから帝権はドイツ王権も前提とした。皇帝はドイツイタリアで国法上最も重要な位置を占め、指導的役割を担った。ドイツ国王は帝位を独占した上でさらにブルグント国王を兼ね、三つの王権が帝権に集約されたことにより皇帝は中世を通じてヨーロッパの世俗権威の頂点だった。

なお中世を通してローマで教皇に戴冠されるまで王は皇帝を名乗ることができず、戴冠前の事実上のドイツ国王は「ローマ王」を称した。帝位自体には権能が無く、教皇に認められた実力者に与えられる名誉称号だった。しかしそれだけにかえって威光は絶大で、特にオットー1世以後13世紀ホーエンシュタウフェン朝断絶にいたるまでの、いわゆる「三王朝時代」の皇帝は教皇と西ヨーロッパ的キリスト教世界の権威と権力を二分していた。無論、この権威は西ヨーロッパでしか通用せず東ローマ帝国の皇帝は西の皇帝をあくまでフランク人(西ヨーロッパ人)の皇帝と見ていた。

シュタウフェン朝の断絶以後、帝位は100年近く途絶えた。既に帝位の前提となって久しいローマ王の権力でさえハプスブルク家ルドルフ1世の即位まで空白となる「大空位時代」となり王権・帝権は著しく衰退した。王位は世襲もままならず、皇帝になるためのローマ遠征ができない王も多く出た。その間にドイツ諸侯には様々な特権が付され、イタリアは都市国家が乱立し、ブルグントフランスに併合されていった。この時代から普遍的皇帝理念と現実の皇帝の政治権力の間にかなりの乖離が見られるようになった。

したがって中世後期以降は帝権の及ぶ範囲は現在のドイツとその周辺に限られるようになり、さらに皇帝の政策を見ても帝国や帝権の利害よりは自分の家門を強化することを重視するようになった。皮肉にも神聖ローマ帝国という国号が定着するのはこの頃である。帝位の前提となるローマ王(ドイツ王)選挙にも教皇や外部の王権が介入したが、1356年カール4世金印勅書を発して、国王選挙に参与する選帝侯の地位を固定し、その世襲を明確化した上で選挙によって選ばれた国王がただちに皇帝としての権力を得ると定め帝権の自律性を高めた。

その後、ハプスブルク家の皇帝フリードリヒ3世は治世が長きに及んで王位世襲に成功し[注 1]、息子マクシミリアン1世は諸侯の要請で帝国を改造し、今でいう国家連合に近い体制を整えた[注 2]。マクシミリアン1世もまたローマ遠征を成し遂げられなかったローマ王だったが、教皇からは「選ばれしローマ皇帝」の称号を贈られた。以後、ローマ王(ドイツ王)は無条件で名実共に皇帝と認められるようになり、代わりにローマとの関りを失って実質ドイツ皇帝という状態が定着した。

一方で初代カール大帝の頃には帝国の一部だったフランスも帝位(厳密にはローマ王位)獲得に挑戦する資格を有し続けており、フィリップ3世フランソワ1世ルイ14世の三人が実際に帝位を狙った。特にフランソワ1世カール5世(マクシミリアン1世の孫)による選挙戦は熾烈を極めた。皇帝に選ばれたカール5世はさらにイタリア戦争でフランソワ1世と戦い、これを勝ち抜く頃には帝位がハプスブルク家によって事実上世襲されることが明確となった。以後1806年に帝国が法的に消滅するまで、帝位はハプスブルク家によってほぼ独占された。
帝権の変遷
カール大帝の戴冠とオットー大帝による帝権の復活詳細は「カロリング朝」、「カール大帝」、「フランク・ローマ皇帝」、および「オットー1世 (神聖ローマ皇帝)」を参照


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